東日本大震災が発生してから1年が経ちました。あの時のショックが昨日のように思い出されますね。被災地ではなかなか復興が進んでいません。また福島原発の放射能漏れもいまだに収まらず、相変わらずの避難生活が続いています。
 一日でも早く元通りの生活に戻れるようお祈りしています。

 今月は弟のエッセイをご紹介します。弟は芥川賞作家の宮原昭夫氏が指導されている文章を書く会「文芸光風」のメンバーです。毎月書いたものを年2回宮原先生が講評されるようです。
なお「川端康成の死について」は私が補足しました。

特別寄稿
川端康成と伊豆の踊子      新田自然


 川端康成ほど伊豆を愛した作家はいないだろう。彼の伊豆の拠点は湯ヶ島温泉「湯本館」で、一高生の19才、初めて伊豆に旅して以来10年間、毎年伊豆に通いつめ、1年間のほとんどを伊豆に滞在したこともあった。伊豆に関する作品も多く、「伊豆の旅」として小説、随筆などが1冊の本にまとめられている。ほとんどが小品だが、その数25点にもなる。
 「伊豆の踊子」は、初めて伊豆に旅したときの紀行文「湯ヶ島での思い出」を下地に27才になって書き上げたもので、定宿湯本館の愛用の部屋、渓流沿いの八畳間、で書いたものだ。

道がつづら折りになって、いよいよ天城峠に近づいたと思う頃、雨脚が杉の密林を白く染めながら、すさまじい早さで麓から私を追って来た。

 この素晴らしい書き出しで始まる小説は、みずみずしい筆致で読者をとらえて放さない。大正15年、27才になった川端は「文芸時代」にこの小説を発表した。その前年3月、「文藝春秋」にこんな文を載せている。

 七年前、一高生の私が初めてこの地に来た夜、美しい旅の踊子がこの宿へ踊りに来た。翌る日、天城峠の茶屋でその踊り子に会った。そして南伊豆を下田まで一週間程、旅芸人の道づれにしてもらって旅をした。
 その踊り子は十四だった。小説にもならない程幼い話である。踊子は伊豆大島の波浮の港の者である。


 「小説にもならない程の幼い話」を翌年小説にしたのは、入り浸りになっていた伊豆への愛着がそうさせたのかもしれない。この年、松林秀子との結婚生活が湯本館で始まり、湯本館には大勢の文士仲間が訪れるようになった。川端は伊豆の踊子の成功により文壇の第一人者として認められるようになったが、死ぬまでその座を明け渡すことはなかった。
 川端が「日本人の本質を描いた、非常に繊細な表現による叙述の卓越さ」によってノーベル賞をもらったのは1968年(昭和43年)、69才の時だった。12月、ストックホルムでの授賞式に臨み「美しい日本の私」と題する記念講演をおこなった。受賞後の欧州旅行から帰った後は多忙を極め、海外での講演、アジア作家会議、個展開催、自殺した三島由紀夫の葬儀委員長、都知事選において秦野章の応援を引き受けるなど、作家としての活動以外のことに巻き込まれ、これといった作品にも恵まれず、体調を崩すなどしていたが、1972年4月、逗子マリーナの仕事場でガス自殺した。72才であった。現場には書きかけの原稿があり、遺書もなかったことから自殺ではないとする説もある。
 川端康成は1899年(明治32年)大阪に生まれる。2才で父を亡くし、3歳で母親が死に、祖父母にひきとられていたが7才の時祖母を亡くし、以降祖父と二人だけの生活となった。その祖父も15才の時死亡し孤児となる。親戚のうちに預けられ、若い日の彼は幸せとはほど遠い位置にあった。しかし天賦の才に恵まれた少年は中学に主席で入学し、周囲の人々や親戚の援助で一高帝大と進み、菊池寛に認められるようになって後援を受け、文壇に躍り出ることになった。菊池は彼が作家として育つためには、惜しげもなく資金援助をおこなったとされる。
 幼き日の計り知れない不幸と、与えられた天賦の才、不思議な出会いが重なり合ってわが国を代表する作家が誕生した。孤児となるという不幸は内向きな少年をますます内向させ、祖父の死に近い日々を写生風に描いた処女作「十六才の日記」が誕生した。悲嘆と栄光、その直後の自死、明治生まれの文士の劇的生涯は、まさにフィクションのごとく際立っている。

 「伊豆の踊子」はみずみずしい文章で青春の哀感、旅情を描いた名作として、読者から支持され6回も映画化されるなどしてきたが、はたしてそうなのか、もう一度読み直してみたい。
 天城七里の山道を旅芸人を追って来た「私」は、雨宿りの峠の茶屋でめぐり会ったのだった。茶屋の婆さんとの会話

 「あの芸人は今夜どこに泊まるんでしょう。」
 「あんな者、どこで泊まるやらわかるものでございますか、旦那様。お客があればあり次第、どこにだって泊まるんでございますよ。今夜の宿のあてなんぞございますものか。」
 甚だしい軽蔑を含んだ婆さんの言葉が、それならば、踊子を今夜は私の部屋に泊まらせるのだ、と思ったほど私を煽り立てた。


 ここには当時の社会的背景が浮き出ている。一高生は旦那様で、しがない旅芸人は、客次第でどこにでも泊まり、売春だってする最下層の人達、婆さんはその中間に位置する一般層として描かれている。「踊子を私の部屋に泊まらせる」とは踊子たる女を金で買うことにほかならない。踊子の年令を17、8才くらいとみていた「私」は、もうすっかり世の中を知っている娘盛りだと思っていた様が覗え、気に入っていた踊子を褥に侍らせようと昂ぶった気持ちになっていた。
 湯ヶ野の木賃宿に着いた一行は、踊子が「私」に茶を運んでくるとき、真っ赤になって手をぶるぶる震わせて茶をこぼしてしまった。

 あまりにもひどいはにかみようなので、私はあっけにとられた。
 「まあ! 厭らしい。この子は色気づいたんだよ。あれあれ…。」四十女があきれ果てたという風に眉をひそめて手拭いを投げた。踊子はそれを拾って、窮屈そうに畳を拭いた。この意外な言葉で、私はふと自分を省みた。峠の婆さんに煽り立てられた空想がぽきんと折れるのを感じた。


 これ以来「私」は踊子を妹に接するように感じはじめたのだった。こんどは踊子がいつ男をとらされるか気になって仕方がないと悩みはじめる。その夜踊子達が呼ばれた酒宴が開かれ、踊子の叩く太鼓の音が雨音に混じって聞こえてくる。

 太鼓が止むとたまらなかった。雨の音の底に私は沈み込んでしまった。
 やがて、皆が追っかけっこしているのか、乱れた足音が暫く続いた。そして、ぴたっと静まり返ってしまった。私は眼を光らせた。この静けさが何であるかを闇を通して見ようとした。踊子の今夜が汚れるのであろうかと悩ましかった。
 雨戸を閉じて床に入っても胸が苦しかった。また湯に入った。湯を荒々しく掻き回した。雨が上がって、月が出た。雨に洗われた秋の夜が冴え冴えと明るんだ。跣で湯殿を抜け出して行ったってどうとも出来ないのだと思った。二時を過ぎていた。


 翌朝は晴れて気持ちのいい日だった。宿から川向こうの共同浴場が見える。

 私は共同湯の方を見た。湯気の中に七八人の裸体がぼんやり浮んでいた。
 仄暗い湯殿の奥から、突然裸の女が走り出して来たかと思うと、脱衣場の突鼻に川岸へ飛び下りそうな格好で立ち、両手を一ぱいに伸して何か叫んでいる。
 手拭いもない真っ裸だ。それが踊子だった。若桐のように足のよく伸びた白い裸身を眺めて、私は心に清水を感じ、ほうっと深い息を吐いてからことこと笑った。子供なんだ。私達を見つけた喜びで真裸のまま日の光の中に飛び出し、爪先で背一ぱいに伸び上がる程に子供なんだ。私は朗らかな喜びでことこと笑い続けた。頭が拭われたように澄んできた。微笑がいつまでもとまらなかった。


 この後下田までともに旅をして、よき芸人達に癒され20歳の「私」は「いい人だ」という踊子の言葉に、自分の孤児根性が抜けていくのを感じたのだった。下田港での別れに際して踊り子は一言も発しなかった。さよならを言おうとしたが、いっぺんうなずいて見せただけだった。船上の人となった私は涙を出任せにして身心脱落してゆくのだった。この「私」の心の変化が、世の中から蔑まれている人達との交流を通じて、見事に描かれているところが読者を捉えて放さないのだろう。
 「伊豆の踊子」は以下の文章で終了する。

 私は涙を出任せにしていた。頭が澄んだ水になってしまっていて、それがぼろぼろ零れ、その後には何も残らないような甘い快さだった。

 彼は作品についてこうも書いている。

 「伊豆の踊子」には修善寺から下田までの沿道の風景がほとんど描けていない。自然描写につとめようとも思わぬほどなにげなく書いたと言えば言える。
 二十四歳の夏に湯ヶ島で、公表するつもりもなく書いたものを、二十八才の時にところどころ少し直しながら写したのである。後に風景を書き入れて改作しようと考えてみたことはあったが出来なかった。しかし人物は美化してある。


 つまり川端は公表するつもりのない「手記」として書いたものを人物などを美化しながら「小説」として公表したのである。手記と小説の違いを、われらが宮原先生は「文章の中で『筆者』と『私』とが意識の上でも著述の上でも完全に一致していたならば、それは『手記』のジャンルに含まれる。一方、文章中の『私』の容姿や体験がいかに筆者に近くとも、筆者が『私』を作中の他の人物と同じように見て、『筆者』と私とを意識の上で切り離して捉えることが出来ていれば、それは『小説」である」と言っておられ、その点からすれば「伊豆の踊り子」はまごうことなく『小説』である。
 川端は昭和8年、作品が映画化されるに際しこのようなことを書いている。

 あの時十四であった踊子は、今年もう二十九になっている。(中略)あれが彼女等の最後の旅であった。あの後は、大島の波浮の港に落ちついて、小料理屋を開いた。(中略、兄夫婦について)本物の彼女等夫婦は、悪い病の腫れ物に悩んでいた。彼女等は朝など足腰の痛みで、容易に寝床を起き上がれなかった。兄は温泉の中で、足の膏薬をはりかえた。共に湯の中の私は見るに忍びなかった。水のような透き通った子供が生まれたのも、この病のためであったろう。
 「伊豆の踊子」を楽に書き流したときに、ただ一つの迷いは、この病のことを書こうか、書くまいかということであった。それが書けていたらば、少し感じの違った作品になっていただろう。ところが意地悪く、その後も折ある度に、この腫れ物の幻は、踊子の目尻の紅に劣らぬ強さで、私を追っかけて来るのである。おふくろはいかにも薄汚かった。踊子は目と口、また髪や顔の輪郭は不  自然なほど綺麗なのに、鼻だけはちょぼんといたずらにつけたように小さかった。
 しかしそれらを書かなかったのは、なにも気にかからない。なぜかただ腫れ物だけが、この文章を書きながらも四五日の間、病のことを明かすか隠すかが、絶えず胸を行き交い、いまもそれを書くところまで来て、三四時間筆を止めてるう  ちに、夜が明け、頭が痛くなり、とうとう書いてしまった。書けば後悔するだろうが書かなければまた、これからも腫れ物に追われ続けて、たびたび頭が痛くなるだろう。


 彼は書こうか書くまいか迷ったあげくに書いてしまった。この「伊豆の踊子」が小説であるならば、美化して書かれた人達であっても小説のなかでは、書かれたとおりの独立した存在である。この書きぶりが脅迫されたものであっても、公表してしまっては、読者をシラケさせるだけで、作者としてとってはならない行為である。
 「伊豆の踊子」という完璧な小説としての作品は、もう独立してしまって、作者をしても書き直させない迫力を持っていたのである。書き直せないからといって、手記の部分を持ってきて、「事実はこうでありました」と手品の種明かしをされては読者は困惑するばかりだ。悪い病とはおそらく梅毒だったのであろう。病名は暴露しなかったとしても、この香気を持った作品のイメージが、著しく汚されるような気がしてならない。
 作家とは迷ったらつい書いてしまう悪い病持ちなのかも知れない。

 最後にこれを書いているうち、変なことに気づいた。
 「伊豆の踊子」は少年少女向きの文学全集にも掲載されており、「金の星社」の全集を調べてみた。全集の特色として巻頭には「原作は全文をおさめ、読みやすい現代表記にした」とあるが、肝心の所を抜かせているのである。
 2ページに引用した茶屋の婆さんの話「お客があればあり次第、どこにだってとまるんでございますよ」の「お客があればあり次第」が抜けている。
 「踊子の今夜が汚されるのであろうかと悩ましかった」の文章が抜けている。
 いずれも、当時の踊り子の裏の実態を暗示した一文であり、特に「汚される」のくだりはこの小説の最も重要な部分を構成しており、本文が脱落することにより、画竜点睛を欠くことになる。
 金の星社に訊いてみたが、1973年に初版が発行されたこの全集は、担当者がいないため意図的な削除かどうかはわからないということだった。1997年の時すでに21刷を数えるほど増刷されているベストセラーが、都合のいいところだけ削除されていることに編集者の作為を感じるが、いまの少年少女に原文を読ませても、本当の意味を理解できないと思われるための配慮かも知れない。それならなにも「全文をおさめ」などと書くべきではなかろう。

(参考文献)
・伊豆の踊子 川端康成著 1999 講談社
・伊豆の旅 川端康成著 1981 中央公論社
・書く人はここで躓く 宮原昭夫著 2001 河出書房新社
・伊豆の踊子(少年少女文学全集) 川端康成著 1973 金の星社
 ほかに宮原昭夫氏の講演「作家と読者の間には」を聴講したことが、この文章を書くきっかけとなったことも付記したい。

(参考) 宮原昭夫氏は1932年生まれ、1972年芥川賞受賞、藤沢市在住。

川端康成の死について

 1968年10月、川端康成は日本人初のノーベル文学賞を受賞しました。日本にとって大変名誉なことであり、嬉しい出来事でした。
 1970年11月25日、同じ作家の三島由紀夫が自衛隊市ヶ谷駐屯地で割腹自殺をしました。日本人にとって大変ショッキングな出来事で、私は当日のことをはっきり記憶しています。三島は45歳のバリバリの人気作家でした。
 その2年後の1972年4月16日、今度はノーベル賞作家の川端康成が自殺したと報道されました。その時も三島の時と同じように「なぜ死んだのか」という疑問を感じました。
 三島由紀夫の死については事故死ではないかという疑いも残っているようです。

 Wikipediaで調べてみました。
「死亡当時、死因は自殺と報じられ、それが通説となっている。これについては死亡前後の状況から自殺を疑い、事故死とする見解がある。
自殺説
・交遊の深かった三島の割腹自殺(川端は葬儀委員長であった)。
・1971年東京都知事選挙に自由民主党から立候補した秦野章の支援に担ぎ出されたことへの羞恥
・老い(創作意欲の減少)への恐怖などによる強度の精神的動揺。
・川端が好きだった家事手伝いの女性が辞めた
事故死説
・以前より睡眠薬を常用していた
・遺書がなかった。
・ふだん自ら操作することのなかった暖房器具の使用ミス
・関係者の証言では、自殺死をにおわせるような徴候はまったくなかった」

真相は分かりませんが、超有名作家の死はなぞに包まれたままの方がいいのかもしれません。

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