今月は弟のエッセイを載せました。

特別寄稿
明治の三文豪           新田自然


 明治の文豪といえば、だれしも浮かんでくるのは鴎外と漱石だろう。これに子規を加えて3人の関係などをスケッチしてみたい。
 漱石はすこし前の千円札にも刷り込まれており、「吾輩は猫である」「坊っちゃん」などいまでも多くの人から愛され、支持される文句なしの大文豪である。よく対比される鴎外は、いまではあまり読まれないが、「舞姫」や史伝三部作を完成させた大家として、教科書に必ず登場する文章家である。子規は若死にするが、俳句の中興の祖として、現代俳句界を作り上げた巨人である。そしてこの3人は、それまでの文語体から、言文一致体という新しい日本語の文章を作り上げた功労者でもある。それぞれに新しいジャンルを伐り開きながら、明治以降、欧米より入ってきた文物や概念を、新しい漢語に翻訳創造するという困難な仕事をも、同時並行的におこなったのである。「野球」「郵便」「交響曲」「主権」「民主」「科学」等々枚挙にきりがないが、それらを作り上げる努力はものすごく困難な作業であったろう。これは3人にかぎったことではなかったが、未知の荒野を耕作地に変え、新しい種を植えてゆく難しい作業であったと思われる。
 この3人が活躍するのは日清・日露戦争前後であるが、3人には不思議なつながりが存在する。
以下、2人ずつの関係から、3人の姿を遠望してみたい。

その1 漱石と子規
 まず漱石と子規であるが、この同年生まれの2人は大親友である。腕白大将然とした子規とやや神経質な漱石、この性格の違いもあって2人の関係は、大変うまくいっていたようで、多くのエピソードが存在する。もし子規がいなかったら文豪漱石は存在しなかっただろうし「漱石」という名前もなかったかもしれないのだ。漱石が「吾輩は猫である」で颯爽としたデビューを飾るのは、雑誌「ホトトギス」で、猫が死んでしょげかえっている漱石に、小説を書けと勧めたのは虚子であり、虚子の存在は子規があってのものだからである。「猫」が載った「ホトトギス」は、ばか売れで、値段も倍近くしたそうだ。このあたり虚子の経営手腕は面目躍如たるものがあった。「漱石」というペンネームも子規からの借用であり、俳句も子規から勧められたものである。漱石の俳句は滑稽を活かした独自の句風で、彼がもし大文豪にならなかったら、子規一門の俳人として名を残していたに違いない。一高時代「下手な」漢詩をやっていた関係や寄席好きなこともあって2人は親しくなってゆき、死ぬまで交流はつづいた。

 漱石が中学の教師として松山にいた頃、漱石の借家に子規が転がり込んだ。日清戦争の従軍記者として大陸に渡り、大喀血をして松山に戻ってきたのだった。子規は市内にある自分のうちへも親戚のうちへも行かず、「此処に居るのだ」と言って、勝手にやって来たらしい。「肺病だからよしなさい」という周囲からの忠告があったが、漱石は自分は二階にいるからと、子規に階下の部屋を与えた。ところがその子規先生、松山中の俳句の門下生を集めて、連日のように句会を開き、うるさくて本も読めない漱石は、やむをえず俳句を始めた、と懐かしげに述懐している。「愚陀仏庵」と名付けられたこの借家に50日ばかりいて、子規は東京に戻っていった。食った鰻代も払わせ、おまけに10円ばかり借用して、途中の奈良から手紙をよこして「恩借の金子は当地に於て正に遣い果し候」と書いてきたそうだ。
 漱石の細やかさは、後日東京で子規が闘病の貧乏暮らしをしていた時代、訪ねてきた漱石が、そっと枕の下にお札を何枚か差し入れたりするのである。子規は知っていてもけっして礼などは口に出さない。
 有名な「柿食えば鐘がなるなり法隆寺」の句も、半年ばかり前に漱石が作った「鐘つけば銀杏散るなり建長寺」を換骨奪胎している。「新聞日本」の文芸欄を担当していた子規がその句を選句している。もし漱石が「あれは私の句をもじったものだ」などと言ったとしても、「どうだ俺の句の方がいいだろう」と、子規はしゃあしゃあと答えたかも知れない。心を許しあった友人関係の愉快さを見る思いがする。

 2人は書簡の末尾に句を入れたり、別れに際して句を贈ったりしている。松山を去るにあたり
  行く我にとどまる汝に秋二つ     子規
  御立ちやるか御立ちゃれ新酒菊の花  漱石

 学生時代、喀血して松山に帰ろうという子規を励まして漱石(当時はまだ金之助)は、
  帰ろふと泣かずに笑へ時鳥     金之助
と、書簡を送っている。時鳥とはホトトギスの別名、つまり子規のことである。因みにホトトギスは「鳴いて血を吐く」といわれ結核の代名詞、子規は喀血して以来「子規」と名乗った。また時鳥は「不如帰」とも書き、漱石はそのこととかけ合わせてこの句を作ったのだった。

 そんな漱石を子規はどう見ていたか、門人の問に答えて
「僕の親友に夏目という才物があるが、どうも野心がなくて困るんだ。執着心がほとんどないのでなあ。いま熊本の高等学校から英国へ留学しているが、(これほどの男は)日本に二人とあるまい」と言った。
 これは漱石が世に出る前のことであるが、子規は漱石の文学者としての非凡さを見抜いていたのである。

 漱石の子規について書いたものはいくつかあるが、2人の関係を語ったもので、
「(子規は)何でも大将にならなけりゃ承知しない男であった。二人で道を歩いていても、きっと僕をひっぱり廻したものだ。尤も僕がぐうたらであって、こちらへ彼が行こうというと其の通りにしていた為であったろう」と、これは雑誌「ホトトギス」のインタビューに答えたものだ。
 続けて、子規の性格をやや滑稽がって描いている。
「あの駒込追分奥井の邸内に居った時分は、一軒別棟の家を借りていた。(中略)其の時分は冬だった。大将雪隠へ這入るのに火鉢を持って這入る。火鉢を雪隠へ持って行ったとて(火に)当たることが出来ないじゃないかというと、いや当たり前にするときん隠しが邪魔になっていかぬから、後ろ向きになって前に火鉢を置いて当たるのじゃと言う。それで其の火鉢で牛肉をじゃあじゃあ煮て食うのだからたまらない」と。

 明治というおおらかな時代を彷彿する2人の若き頃の話である。この類の話は、次の子規と鴎外の話にも出てくるが、子規という人は35才までしか生きていなかったわりには、こんな話にことかかない。

その2 子規と鴎外
 鴎外が生まれたばかりの長男於菟と妻登志子を残し、本郷駒込千駄木の家に移り住んだのは明治23年のことである。この家がまた不思議な因縁を持つ家であったが、それはその3に譲ることにして、ここでは子規と鴎外の関係について書いてみたい。子規と鴎外がいつ出会ったかはよく分からないが、伊予と石見、俳句詠みと軍医では、棲む世界が違い、文学的に無名の時代には、接点はなかっただろう。だから2人の出会いは文学者として頭角を現して以降ということになる。鴎外の作家デビューは「舞姫」だとして、2人が相まみえるのは、明治22年から子規が喀血をする前、すなわち明治28年、日清戦争の開戦以前の間ということになる。知り合って、子規がまだ元気な頃、鴎外の千駄木の家によく来ていたそうである。於菟のエッセイ「解剖台に凭りて」の一文をを加賀乙彦が紹介している。 於菟は鴎外が家を出て、母は離縁され、鴎外の母峰に育てられていた。彼も東大医学部を出て、鴎外の命で解剖学者になった。文才はおやじにないユーモアがあったようだ。なぜか東大医学部出には、けっこう文学者が出ている。斎藤茂吉、木下杢太郎、水原秋桜子、加賀乙彦等である。

 「子規は甚不精者であったと見えて、常に垢を蓄へては根岸の里から千駄木へと運んで其臭気に綺麗好の私の祖母を辟易させたらしい。しかも話に興が乗ると胸から腹の辺が痒くなると見えて右手を深く懐に入れてこするのである。(中略)かくして製造せられた垢の団子を拇の腹にのせて示指の先で弾くのでそれが対座してゐる父の膝に落ちたり、時としては間にある火鉢に入って室中に異臭を漲らせたりする。或時子規の興が高調に達すると共に勢よく発射された弾丸が丁度父の後の障子をあけて茶を運んできた祖母の額に命中したといふのが私の直接祖母から聞いた間違いのない文献なのである。」
 乙彦は続けて
「子規が垢だらけであったのに鴎外は清潔そのものでした。於菟は鴎外が銭湯の不潔を嫌い、自分の家の風呂も嫌い、行水をつかったと、風呂嫌いの潔癖な父の様子を描写しています。朝起床したあとと夕方役所から帰ってからと二回、カナダライと口漱ぎと湯沸かしをそばに置いてゆっくりと身体を拭います。つかう手拭いは一つで顔を拭くのも股のあいだを拭うのも同一でした。『人が汚いというが、おれの体に汚い所はない』というが衛生学者林太郎の自信でした。」

 夢中になったらきれいも汚いもない子規と、常に他人と自分を峻別せざるを得ない鴎外の、面白い個性がにじみ出た好エッセイである。

 日清戦争に従軍記者として大陸に出向いた子規は、遼東半島にある金州で鴎外に会い、数日間俳句論など大いに戦わせたようだ。
 このくだりはNHKスペシャルドラマ「坂の上の雲」に登場するが、司馬遼太郎の原作にはなぜか出てこない。鴎外と脚気のしがらみについては司馬はまったく触れようとしていないのだ。
 そのあと、大陸からの帰路、子規は大喀血をし、失意のもとに戻ってくるが、根岸での子規は残された時間を削るように句作りや弟子の育成にのめり込んでゆく。
 明治29年、子規庵での発句初めに、鴎外が参加、同席者に漱石、虚子などがいた。当日の兼題は「霰」だったようで

  おもひきって出で立つ門の霰かな   鴎外
  雨に雪霰となって空念仏       漱石
  面白う霰ふるなり鉢叩        虚子

 こういってはなんだが、まあそれなりの出来だったようで、句会での最高点は鴎外であったそうだ。

 鴎外と子規がどんな話をしたかは定かではないが、子規は年長者で博識の鴎外が魅力的で、好奇心の対象としては素晴らしいと思ったには違いない。特に海外に強い憧れを持っていた子規は、ヨーロッパでの生活や文物など聴きまくったのではなかろうか。
 鴎外も詩作や短歌俳句など、あらゆるものに興味をもっていたようで、話題には事欠かなかっただろう。ここ子規庵で知り合った伊藤左千夫や与謝野鉄幹などを、後日主宰する観潮楼歌会に呼んだりしている。子規と漱石のように肝胆相照らす仲ではなかっただろうが、知的好奇心のぶつかり合う仲であったと思うのである。鴎外は語学や評論、ジャーナリステイック性に長けており、欠けているものといえば深い人間観察力、詩藻性(必ずしも本人はそう自覚していなかったようであるが)ではなかったろうか。鴎外には心に残る「文学的言の葉」は残し得ていないように思える。
 片や東京帝国大学卒のエリート官僚、片やしがない俳人、子規は臆することなく鴎外に近づいていっただろうし、鴎外も短詩形詩人に深い畏敬の念を持っていた、この辺が明治の文人のおおらかさといえるだろう。たとえ極貧に貧しようとも子規には臆するという概念は持っていなかった。
 それにしても、司馬がなぜ「坂の上の雲」において、鴎外と脚気という絶対外せないテーマを書かなかったのか、いまや解き明かずすべを持たない。それは鴎外と司馬の小説作法の近似性にあるように、私には思える。鴎外は歴史小説や史伝に大きな足跡を残した。鴎外はいう、自分は歴史をありにままに、小説として書いてきたが、歴史を事実としてそのままに書いたとしても、小説として書く以上そこに虚構があり、作者の選択があり、嘘が混じっていると。
 まさに司馬は明治や日露戦争を書くにあたって、明治の明るさや、坂の上に輝く「雲」を謳いあげるために、小説としてあれを書き上げた。脚気問題という鴎外の罪を書くことは小説の主題として書くべきでないということではなかったか。書かないということにおいて小説としての「嘘」を入れたのだと。歴史をどう描くか、鴎外との近似性において司馬はあの「小説」から鴎外と脚気を排除した。むしろ取りあげられなかったのではなかったか。
 ちょっと筆がすべりすぎたかもしれない。子規と鴎外という2人の接点があったということが嬉しくて書いてみた。これも作者の選択とお許し頂きたい。

その3 鴎外と漱石
 子規と漱石、鴎外の関係を見てきたが、鴎外と漱石には、子規を媒体にしても、それほど強い接点を見いだせない。3人が顔を合わせたことは、前述の句会や文士仲間の会合など何回かはあったものと思われるが、2人の性格、活躍の時期、孤高性、軍医であった鴎外、教師、朝日新聞入社、のちに職業作家となった漱石、といったズレが微妙に作用して濃密なものにはならなかったようである。
 もちろん国中に知れ渡ったお互いの作品を、読まなかったことは絶対にあるまい。鴎外の「青年」は漱石の「三四郎」を意識して書かれたともいわれており、双方相当読み込んでいたが、批評しあうことを避けたのだろう。敬して遠ざける、これはもう2人の個性というしかあるまい。
 鴎外が「舞姫」により峻烈なデビューを飾ったのが明治23年(1890)、漱石が「吾輩は猫である」で颯爽と登場したのは 明治38年(1905)と15年の年月が存在し、その間、鴎外は日清戦争、小倉左遷、日露戦争などと文学以外のことで忙殺されていた。明治40年には待望の陸軍軍医総監にも就任する。「吾輩…」でキラ星のごとく漱石が誕生し、あれよあれよという間に話題作を発表し、文壇の寵児となって行くのを、鴎外はただ眺めるしかなかったのだろうか。42年には「ヰタ・セクスアリス」で戒飭処分にあったりしている。地位も名誉も得た者が、どうしてそんなものを発表するのか、常識では考えられないことに思える。
 鴎外が自らの足もとを固めていった歴史小説、史伝三部作は、漱石が亡くなる前後のもので、2人とも若死にという死に方をしたが、作家としての鴎外の多作長命、漱石の凝縮短命が際立っている。

 さて、鴎外が女房を置いて文京区千駄木に移ったのは明治23年のことであった。この家は明治20年頃医学博士中島襄吉が新居として建てたもので、鴎外は弟たちを連れてこの家に移り住んだのだった。中島襄吉は産婦人科医師であったようで、当時空き家になっていた。その家を借りて住み込んだ鴎外の人気が上がるにつれ、来る者も多くなり、子規までも出入りしたのはすでに書いたとおりである。鴎外は漱石のように弟子をとったりするのではなく、知識人が広く交流するサロン的雰囲気を求めたようである。鴎外がここにいたのは1年ばかりであり、近くの団子坂上に新居を建て「観潮楼」と名付けた。

 それから10年以上たって、明治36年、英国から戻った漱石が、この千駄木の、それも同じ家に移り住んだのである。漱石はこの家で共に住んだ猫を題材に「吾輩…」を書き上げた。「吾輩…」は 当初1回限りの作品として発表されたが、あまりの評判に翌年8月まで、全11回まで延長された。
 モデルとなった野良の黒猫は、千駄木の家に住みつき、明治41年に死んだ。漱石は親しい人達に猫の「死亡通知」を出し、墓も建て
 「この下に稲妻起こる宵あらん」
と句を添えた。
 3年ばかりいて、漱石は本郷へ転居、すぐに早稲田へと転居し、没するまで10年ばかり過ごした。「漱石山房」と名付けられた住まいは、生誕地に近く、早稲田大学にも近い。

 鴎外、漱石と明治を代表する文豪2名が住まったその家は、愛知県犬山市にある「明治村」に移築され当時の状態をいまに伝えているそうである。明治村は40年くらい前訪れたことがあるが、鴎外や漱石にまだそれほどの興味をもっていなかったので、わたしはその家を見たことを記憶していない。
 漱石が入居前に家の来歴を知っていたかどうかは、いろいろ調べてみても不明であったが、こんな奇跡ともいうべき事実があったのは、東京がまだ小さく、エリートといわれる人むけの借家がそう多くなかったのかも知れない。
 もし漱石が知っていたら、はたしてその家を借りただろうか。

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