今月は手賀沼通信第172号に続いて「民謡への招待」と弟のエッセイを載せました。
 何とか休まないで続けることができました。

 写真は10月28日に行われた「第18回 手賀沼エコマラソン」をとったものです。
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民謡への招待(続き)

手賀沼通信172号の「民謡への招待」では、民謡のルーツや背景によって民謡を分類しました。
 ・盆踊り、お祭り
 ・追分、馬子、牛追い
 ・漁、舟、川舟
 ・酒造り
 ・騒ぎ唄、お座敷唄
 に分けて、昔から伝わる民謡のいくつかををご紹介しました。

今日はその続きになります。
 古くからある民謡のルーツは上記以外に
 ・農作業
 ・木挽き
 ・土木作業、鉱山などでの作業
 ・祝唄

 ・名所、名物
 ・日常生活
などを唄ったものがあります。唄は人々の生活と深く結び付いていました。これらの民謡の中にも、世に知られた名曲が数々あります。

1.新民謡
 今回は昔から唄われている民謡と違って、新民謡と言われる唄をまとめてみました。新民謡とは大正から昭和にかけて、各地方で愛郷心を高めるため作られた唄です。各地の特色、観光地、名産品などを入れた唄が多く、作詞者、作曲者がはっきりしています。流行歌の中でも民謡調の唄を新民謡としている場合もあります。

北の方からご紹介しましょう。北海道は歴史が浅いため、全国一新民謡が多いところです。
・北海浜節(北海道)作詞・作曲は千葉勝友。北海道の江差追分を挿入している
・北海大漁節(北海道)昭和25年頃松本一晴作詞、須藤隆城作曲で生まれた大漁節
・十勝馬唄(北海道)昭和40年大野恵造作詞、堀井小二郎作曲になる竹もの(尺八だけの伴奏)。雄大な十
 勝を背景に人と馬の触れ合いを唄った
・石狩浜大漁節(北海道)昭和56年原田隆風作詞、岩見勇喜作曲になる大漁節
・出船音頭(北海道)昭和34年函館の田原賢声が作詞作曲した。私の好きな唄の一つ
・石狩川流れ節(北海道)昭和45年島野富夫作詞、原賢一作曲で石狩川を唄った
・ヤン衆音頭(北海道)昭和45年宮本かずや作詞、原賢一作曲の海の男の心意気を唄った
・江差馬子唄(北海道)松井由利夫作詞、小沢直与志作曲の江差をテーマにした歌謡調の唄で全国的に唄
 われている
・秋鮭大漁節(北海道)淀川隆作詞、橋本静玉作曲で、好感の持てる親しみやすい曲
 北海道には、上記以外に次の新民謡があります。
十勝カラサオ節、オホーツク流し唄、北海ヤンレサ節、蝦夷富士の唄、函館甚句、北海馬子唄、北海船方節、蝦夷甚句、芦別馬子唄、どさんこ甚句、どさんこ舟唄、柳葉魚舟唄、どんころ節、秋鮭浜唄、千島女工、釧路川筏流し唄

以下は各県の新民謡です。
・りんご節(青森県)昭和29年成田雲竹作詞作曲。全国的に唄われている
・八戸小唄(青森県)八戸市制施行に伴い八戸市を宣伝する唄として作られた。作詞は副数人、後藤桃水作
 曲
・チャグチャグ馬コ(岩手県)昭和32年小野金次郎作詞、小沢直与志作曲。愛馬を連れてパレードする行事
 がおこなわれる
・岩手節(岩手県)昭和40年佐藤市右ェ門作詞、井上成美作曲。岩手の代表的な民謡の曲名が織り込まれ
 ている
・仙台節(宮城県)昭和28年後藤桃水が作った。仙台を中心とした四季風物や名所が唄われている
・新さんさしぐれ(宮城県)昭和26年刈田仁作詞、武田忠一朗作曲。さんさ時雨を元に手を加えている
・秋田港の唄(秋田県)秋田市土崎港出身の劇作家金子洋文が作詞作曲
・秋田節(秋田県)昭和28年頃藤田周次郎が作詞、小野峰月が作曲した
・本庄甚句(秋田県)昭和41年伊藤要作詞、佐々木實作曲
・新相馬節(福島県)堀内秀之進と鈴木正夫の共同によってできた新民謡で、全国的に広まり、今では福島
 県を代表する民謡の一つになっている
・白虎隊(福島県)新民謡というより愛唱歌といった方がよく、島田馨也作詞、古賀政男作曲、藤山一郎・霧
 島昇の唄で大ヒットした
・相馬しぐれ(福島県)昭和50年代に松井由利夫作詞、山路進一作曲の歌謡民謡。新相馬節のメロディが
 アンコで入っている
・磯原節(茨城県)野口雨情作詞、藤井清水作曲の新民謡で、全国で唄われる名曲。磯原海岸近くに野口
 雨情記念館がある
・筑波山唄(茨城県)金子嗣童が作詞作曲。筑波山の深き恵み、豊かな情緒を唄いこんだ名曲
・日光山唄(栃木県)昭和50年同じく金子嗣童の作詞作曲。紅葉名高い男体山、黄金造りの東照宮、雄大
 な華厳の滝を唄いこんでいる
・日光馬子唄(栃木県)鈴木勇作詞作曲。日光街道やその周辺を往来する馬子たちの心情を唄った
・草津小唄(群馬県)昭和6年、相馬御風作詞、中山晋平作曲。よく草津温泉の湯もみに唄われている
・上州小唄(群馬県)昭和2年県教育委員会の依頼により、野口雨情作詞、中山晋平作曲で作られた
・白浜音頭(千葉県)房総半島の突端にある白浜町の盆踊り唄として、森町長と森田観光協会長が立案、並
 岡龍司に作詞作曲を依頼して作られた。いまでは千葉県の代表的民謡になっている
・東京音頭(東京都)昭和8年西条八十作詞、中山晋平作曲になる新作盆踊り唄。東京のみならず全国に広
 がった。ヤクルトスワローズの応援歌にもなっている
・武田節(山梨県)武田信玄をたたえて昭和33年米山愛紫作詞、明本京静作曲、三橋美智也が唄って大ヒ
 ットした。当初は歌謡曲だったが、今は民謡としていろいろな場面で唄われている
・天竜下れば(長野県)天竜舟下りをテーマとして、長田幹彦作詞、中山晋平作曲で作られ、昭和8年映画の
 主題歌となって全国に知られるようになった
・ちゃっきり節(静岡県)昭和2年静岡電鉄が料亭旅館と静岡物産の宣伝用に、北原白秋に作詞を、町田佳
 聲に作曲を依頼した
・犬山音頭(愛知県)昭和4年頃、野口雨情作詞、藤井清水作曲で、犬山城や木曽側の日本ラインを唄にし
 た
・鷲津節(愛知県)昭和8年北原白秋作詞、町田佳聲作曲で、湖西や浜名湖周辺の情景を唄にした
・祇園小唄(京都府)昭和5年、牧野省三が映画「祇園絵日傘」を作った際、主題歌として作った唄
・灘の酒造り祝い唄(兵庫県)演歌の名コンビ、星野哲郎作詞、遠藤実作曲による新民謡
・三朝小唄(鳥取県)野口雨情作詞、中山晋平作曲による三朝温泉を唄ったもの
・瀬戸の大漁節(広島県)藤本e丈の作詞作曲の新民謡
・よさこい鳴子踊り(高知県)昭和25年阿波踊りに対抗できる街頭踊り用の曲として、武政英作が作詞作曲
 したもの。高知では8月10日「よさこい祭り」で盛大に踊られ、全国にも広まっている
・島原の子守歌(長崎県)昭和24年宮崎康平が作詞作曲した。昭和32年島倉千代子が唄ったものがレコ
 ード化され全国に紹介された
・久住高原の唄(大分県)昭和初期に山下彬麿が作詞作曲。久住山の素晴らしい景色を唄に織り込んだ

 以上の新民謡は
全国民謡歌詞集「日本の民謡」
秋田・民謡企画出版
 から選びました。秋田県の出版社が編集しているためか、日本の北の方の民謡が多く、南や西の民謡が少ないように感じます。
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特別寄稿
爺さんの下駄作り                 新田自然


 戦時下、5年の間に4人も子供が生まれ、荒物屋という商売は、四国の田舎町であっても結構忙しく、父親にとっては、いつ赤紙が来てもおかしくない状態で、わたしは家から3百メートルほど離れた母親の実家に預けられた。2才の時だった。母親の実家は下駄屋で、爺さんと婆さん、それに叔父の出征直前に、隣町から嫁いできた若いお嫁さんの3人暮らしで、彼女の暇つぶし相手にもちょうどよかったのか、わたしは大切に育てられ、ものごころついたときは、その家がわたしの家であった。
 父親は不思議にも、戦争にとられることはなかったが、商売は繁盛し、きわめて多忙ななかで、母親が結核を発症し、大変な状態で生活していた。おまけに家業についてはなにもしない祖父母までかかえていた。母親はそんななかで、妊娠出産、家事全般、それに店番と、身体を休める暇もなく、それも発症の原因だったかも知れない。
 実家の爺さん婆さんは現役で、その頃は下駄屋も繁盛しており、町内には10軒以上の履物店があり、同業者だけの無尽講まであった。そのなかでも爺さんは、根っからの下駄職人であった。それでも教育熱心だったのか、母親は松山の女学校に、母の弟の叔父は東京の無線学校に通わせたりした。そのかぎりでは叔父を下駄屋にするつもりはなかったようで、下駄屋をどうするのかについて、爺さんの考えは見えてこない。
 爺さんは峰岡長右衛門といい、寡黙な人であった。その分婆さんは商売人でよく喋った。爺さんの下駄作りは半端でなく、わたしが爺さんの年になって考えると、それはもう商売というより、下駄作りをきわめたいという、趣味、道楽の境地にあったようにさえ思える。
 以下、思い出をたどり、爺さんの下駄作りを再現してみる。
 まず桐の木を探しに山へ出かけるところから始まる。直径20センチほどだったか、14・5本の桐の立木を買い付ける。あるとき、爺さんが買い付けに山に連れて行ってくれるという。喜んでついていったら、山の中で「これから立ち寄っていくところがあるから、お前はこのまま1人で帰れ」と言う。初めて行った知らない山村であった。泣きそうな顔をしたら「なあにこのまま真っ直ぐ下って行ったら戻れる」という。わたしは涙を出すこともできず、恐怖心と戦いながら、ひたすら歩いたことを忘れることができない。爺さんは山育ちなのであまり気にならなかったのだろう。婆さんの教育で立派な迷信少年になっていたわたしは、狐が人をたぶらかすなどといったことを信じていた。もう2度と来るまいと思った。
 数日して桐の生木が届く、最初の作業は桐の木の皮むきである。キッチンのピーラーの大きなもののような皮むき鉋で皮をむく。桐の木の皮は気持ちよくむけた。生木を立てかけるなどして、たっぷりの時間をかけて乾燥させる。乾燥には数ヶ月かかったものと思われる。その間爺さんは通常の商売をしている。
 桐の木が乾くと、裏手にある作業場で、下駄の大きさ大に切り分ける。筒状になった木に墨で線を引き、長方形の木片に裁断する。鋸は木を横に切る場合と縦に切る場合でそれぞれを使い分けていた。横挽き鋸は普通の鋸であったが、縦挽き鋸は真っ直ぐ切れるように刃の上の鉄板が半円状につくられていて、大きな図体をしていた。その過程では大量の木端や鉋屑がでたが、桐の木はよく燃えるので、近所の人が焚きつけに貰いに来ていた。
 木片は、縦25センチ、横15センチ、厚さ13センチぐらいか、それを1足の下駄に切り分けるのだ。昔、下駄を脱いで劇場などの下足に出すとき、下駄の前後を互い違いに抱き合わせたのを思い出していただきたい。あの形に切り分けるのである。これが下駄作りのメイン作業である。まず鋸で縦に切り目を入れる。これは簡単だが、そこから直角に切れ目をつけなければならないが、鋸が入らない。糸鋸を使えば簡単だが、爺さんはそんなものは使わず、30センチ物差し状の鋸を使っていた。物差しの片側中央あたりにかすかな刃が直角についているものを切れ目に差し込み、少しずつ直角に切れ目をつけていく。鋸はゴルフクラブの番手のように少しずつ刃が大きくなってゆき、あるところまで来ると、こんどは刺身包丁のような細身の鋸で切れ目を広げてゆく。この鋸も番手がいくつかあった。
 そのまま切り進んでいくと、木片は切断されるため、あるところまで行くと、また直角に切れ目をつけるため同じ作業が繰り返される。凸凹の字をなぞるような作業である。ずいぶんしんきくさい作業だが、下駄が抱き合った状態で裁断されるまで続く。何回かのくり返しの後、やっとセパレートされた下駄は、鉋が入り、四辺を丸く形を整えられ、鼻緒の穴が穿たれ、原型が完成する。
 それに砥の粉という塗料を塗りつけ、乾燥すると、蝋をつけたブラシで磨き、滑らかな褐色をした桐下駄が完成する。じつに桐の木を購入して数ヶ月かかってやっと桐下駄ができるのである。下駄作りの道具は20種類を上回っていたように思える。こんな下駄作りをしていたのは、町内でも爺さん以外にはなく、普通の下駄屋は下駄と鼻緒を別々に仕入れ、鼻緒をすげて店に出して売るだけの商売であった。爺さんはほかにも学生が履く朴歯の高下駄も作っていた。
 こんなことを、小学生になるかならないかのわたしが、なぜ克明に記憶しているのだろう。爺さんは話しかけるでもなく、黙々と仕事をするだけであった。不思議に思えるのだが、わたしは強い好奇心をもってその作業を眺めていた。爺さんはひょっとしたら、もし叔父が戦争から戻ってこなかったら、わたしを下駄作り職人にしたかったのかも、それともただ見せたかっただけなのかも知れない。もし下駄屋を継がせるのであれば、なぜ叔父を東京の無線学校に行かせたのだろう。やがて叔父は無事満州から帰還し、わたしは本家に戻り、荒物屋も継がないで、早稲田に行くことができた。人生の、「もし」がひと転がりをしていたら、わたしはいま、ここ藤沢にいることはなかっただろう。
 爺さんは好奇心が強い人で、祭があるといえばどこへでも出かけた。泊まりがけで2千メートル近い石鎚山まで登ったり、椿さんという祭に出かけ、屋台でまやかしものの筆を大量に買ってきて「安かったぞ」と自慢したりした。裏手に小さな畑や、少し離れたところに田圃を持っており、普通なら植えないさとうきびを植えてみたり、れんこんを作ったりしていた。れんこん畑から戻って爺さんの足にはヒルが数匹吸い付いたままであった。「ヒルは悪い血も吸うてくれるんじゃ」とあまり気にしていなかった。そんな爺さんを下駄作り作業とともに思い出すのである。
 仙台に住んでいたとき、ある博物館で下駄作りの道具一式が展示されており、あの爺さんの作業が、当時では標準化されたものだったと理解したとき、きわめて懐かしい思いがこみ上げてきた。爺さんの下駄作り、その手の中から、まさに芸術品ができあがるのを、できたらもう1度眺めてみたいものである。
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