人は歳をとっていくと配偶者を亡くします。2人で旅行中に一緒に飛行機事故に遭うなどという場合を除いて、どちらかが先に逝きます。通常は男性が先に死ぬことが多いのですが、そうでない場合もあります。
 弟はがんで妻を亡くした後、しばらく一人で暮らしていましたが、気の合う人と巡り合い、その人と一緒に住むことになりました。
 ご紹介する「老後をどう生きるか 一つの選択」はそれについて書いたものです。残された時間を悔いを残さぬよう生きるための大きな選択です。
 老いは誰にもやってきます。老後をどう生きるかは、人によっては大きな問題です。すでに自分の老いへの道筋を決めておられる方は別として、どうなるかはその時次第という方が多いのではないでしょうか。

 ここでお願いがあります。弟の文章をお読みいただき、皆様のご感想やご意見を、メールやお手紙でお寄せいただけませんでしょうか。
 できればお寄せいただいた感想やご意見を手賀沼通信でご紹介したいと考えています。
 お名前を出すことはいたしません。性別、年齢(何十代とご記入でも構いません)、現況(2人暮らし、1人暮らし、1人だが家族と一緒など)を書き添えていただければありがたいです。

特別寄稿
老後をどう生きるか ひとつの選択                          新田自然


 月影が、障子に皎皎と鮮やかである。もう深夜は過ぎているだろう。
 暗闇のなかでぼんやりと考えている。人生は航海によくたとえられる。往く先には広大な海原が広がっており、そこは、難破、座礁、衝突、沈没、海賊行為など、遭遇する不測のリスクに曝されている。走ってきたこれまでの航跡だって、定められた上をたんたんと進んできたのではなく、気まぐれな風波に翻弄され、ただ必死に立ち向かって、多くの人に助けられて、やっとここまで来たにすぎない。
  「思へば遠く来たもんだ」
 中也の詩の一節にあるように、ひたすらに生きて、もがいているうちに、考えもしなかったこの地にて、現在がある。振り返ってみると、時空ははてしなく遠い。四国に生を受け、早くに母を亡くし、兄妹と別れ母の実家に預けられ、終戦、新しい母との出会い、小中高校は可もなく不可もなく、実家の叔父の帰還、父母の下に戻る、上京して一浪、大学に入り、損害保険会社に就職、社命で全国を転々、行った先で妻をめとり、父となり、子育て、胃癌との出会い、定年退職、妻に先立たれ、酒に頼る日々、新しい彼女との出会い、新しい生活に踏み切る、そして今、やっとここまで来た。はたしてこれでよかったか、これからどうなっていくのか、
 このように高齢となって、残された時間は、もう片手か、あるいは…。
 思えば遠くへ来たものである。
 暗闇のなかで不思議な浮遊感に浸っている。

 長く連れ添ってきた妻を亡くし、孤独な老人となってどう生きるか、多くの書物が、その生き方についていろいろと指し示している。ひとり居を楽しめ、趣味をもて、孫たちとの生活も楽しいぞ、近隣とのつき合いをよくしろ、はたまた施設への入居方法など、ノウハウからハウツーまで、こと細かに解説している。妻の死後、息子達も共に住もうといってくれたが、子育て真っ最中の彼らとの生活など、そんなものは不可能だと、勝手気ままにやってきた。だが、孤独に過ごす夜は惨めだった。どうしようもない喪失感や空虚感にさいなまれ、とくに病に倒れたときの不安感、だれにも知られず、このまま死んでしまうのではないかと、感じたときもあった。
 そして、この人との不思議な出会いがあり、いまがある。これとて偶々のめぐり逢いが結果をもたらしたもので、二人の求め合う心がなければ、まだ孤独のなかに沈んだままかも知れない。こんな日があるとは思いもしなかったが、運命の糸をたぐっているうち、結局なるようになったのだ、人生とはそんな奇跡の積み重ねでできているものなのか。
 知人の勧めもあって知り合った彼女は、ほぼ同世代、私の自慢めいたつまらない話でも耳を傾けてくれ、コンサートや美術館めぐり、一杯飲みながらの食事会、そして伊豆箱根への小旅行、などなどがあり、お互いが好意を持ち、特に親しい友達だと確認しあって、月数回のデートが楽しむようになっていった。それでいいと思っていた。
 そんな時だった。彼女の長男が住宅を建てるにあたって、共に住んで欲しい、との申し出があって、彼女もその気になり、いざ引っ越しの段階になったと聞いたとき決断した。「それだったら、ぼくと住もうではないか」と、提案したのだ。彼女も迷ったが、「おばあちゃん生活」よりいいわねと、共に住むことを選択したのだ。
 われわれの決断に対し、周囲の多くは賛成してくれたが、みんなが賛成したわけではなかった。それぞれの立場や好みでの疑問や感想が聞こえてきた。しかしその人達がわれわれの生活にどこまで係わっているかを考えるとき、決めねばならないのは結局自分たちでしかないと、共同生活に踏み切ったのだった。年をとってからの再婚は、そんなハデバデしいものではないと、披露宴や式らしいものはなにもしなかった。穏やかに、自然に、二人の生活が始まった。
 これは誰のものでもない、一度だけの自分達の人生なのだ、余生をただ生きていればいいとは思わず、残された日々を思いっきり生きたい。誰にも迷惑をかけず、たわいない話をしたり、どこかへ出かけたり、その日が終わって眠りにつく前、ああいい一日が終わったと、満足できる毎日が送りたい、それ以上なにも望まない。
 先々のことを考えると、不安がないわけではない、お互いこの年令だ、病気、認知症、老老介護、やがて確実に来る別れなど、考えればきりがないが、一日一日を生きがいを持って必死に生きる、きょうがその日であればいい。
 死んだ妻が病の床にあって、「私が死んだら、誰かと一緒になってください、あなたは一人では生きられない人だから」と何度か呟いた。よく見ていたなと思う。妻がいなくなった後、つい酒に頼る日々、「あなたは所詮は弱い男よ」と見抜かれていたようだ。たしかに、近くに独居老人は多いが、ふたたび妻を迎えた人は見あたらなく、与えられた人生を従容として受け入れ、悠然とひとりで生きている、そのような人から見れば、わたしはどうしようもなく弱い男だ。
 もう何時だろう。あたりは静寂で、物音ひとつ聞こえない。

 今年の夏はことのほか暑い夏であった。久しぶりに出かけた仲間との街道歩きだったが、親しく語り合った仲間で一人参加していない人があり、十年以上共に歩いた仲間なのにどうして?と聞くと「彼はもう来られないかも知れないよ」という。加齢による体調不良に認知症も加わり、顔を見せなくなってしまったという。健康で頭脳明晰な人であったが、その人でもこうなるのか、長く歩き続けていると、そんなふうに消えていく人が何人かいた。「自分にもそんな時がいつ来るのか分からないけどさ、寂しいもんだね」と年長の仲間が呟く。年輪を重ねていくと年輪がぼろぼろになっていくのか、と悲しかった。

 だが待てよと、もうひとりの自分がいう、「まだまださ」と、二人で健康に留意し、日一日に生きがいを持ってやってゆけば、そんなものはもっと先に延びるに違いないと。
 こんなことがあった。共に住み始めて間もなくのこと、突然心臓の発作に襲われ、救急車で運ばれたり、手術のため入院しなければならない事態に遭遇した。そんな時の彼女の存在はことのほか大きく、もしひとりだったらどうなっていたか、年をとるにしたがって独居の危険性は増加する。病院への同行、薬の誤飲、飲み忘れ防止、その他もろもろの目配りなど、そのための共同生活ではなかったはずだったが、いてくれたことは有難いことだった。二人での生活のありがたさを再認識したのだった。その後、体調は徐々に良化し、ふだんの生活を取り戻しつつあるが、人生このままで終わるものかと、すっかり変わった毎日を眺める。
 お互いに、いたわり合い、相手に関心を持つが好みや趣味については不干渉、それぞれの過去についてもタブー視することなく語りあう、買い物や散歩、飲み過ぎない程度にビールやワインを楽しみ、季節季節を旅行し、健康に十分チェックをしながら、活力を持って行動する、そんな毎日を心がけよう。日常の役割は分担しあうことになっているが?まあそれはそれ…。家のなかは小ぎれいになり、洗濯物は折りたたまれ、冷蔵庫の中もすっきり、変われば変わるものだ。おおらかな彼女は苦情をいうでもなく、彼女にとってもまったく新しい生活を楽しんでいるようだ。
 高齢になってから人を好きになるということは、若いときのそれと異なり、なにがなんでも奪いたい、あるいは与えたい、といった激情的なものではなく、おだやかで静かなものであり、お互いを必要とし、その人が傍にいてくれることがいかに快いか、そんな気持ちに支配されているのではなかろうか。
 「孤独死」の多くは、妻に先立たれ、趣味もなく、地域との繋がりは希薄で、セルフネグレクト(自己放棄)の状態で起こってしまうといわれる。そうなると生活維持のための行動をとらなくなり、食事さえとらなくなるようだ。自然死?そんな死は孤高の死でもなんでもなく、無為ののたれ死にだ、まだ枯れないぞ、必死に生きて、その日々を楽しみ、その後は天にまかせよう。
 私たちの航海はまだ終わっていない。嵐がこようと、なにがこようと、二人で共に、前を見つめ、協力し合い、帆を張り、緩め、舵を取り、遠い先の港に着くまで、がんばり抜こう。

「これでいいのだ」

 眠れないままに、まとまりもなく、行きつ戻りつした考えを確認するように、思い返していた。ようやく白みがかった障子の桟を眺めながら、もう起き上がろう、いつものように朝のウォークに出かけよう、腕を布団から突き出して、思いっきり伸びをした。
 ひんやりした朝は、富士山が白くくっきりと見え、カワセミが青い羽根をはばたたせてホバリングする姿を見せてくれるかも知れない。川霧のけぶり立つ道を、ピッチをあげて歩こう。朝の仲間と楽しく語り合おう。新しい今日が始まる。


 今年も手賀沼に冬の渡り鳥がやってきました。なお、こぶ白鳥は1年中手賀沼に住んでいます。
手賀沼の渡り鳥
(画像のクリックで拡大表示)

 以下は手賀沼通信ブログからの抜粋です。

3台目の無線LAN(平成24年8月1日)

 平成24年7月28日無線LANが繋がりにくくなったため、新しい無線LANを購入しました。3台目の無線LANです。
 我が家には3台のパソコンがあります。私のデスクトップとノート、妻のノートパソコンです。私のデスクトップは有線LANで、2台のノートソコンは無線LANでJCOMのターミナルアダプターに繋がっています。時々家に遊びに来る長男や長女の夫のパソコンやスマートフォンも無線LANにつないでいます。
 最初の無線LANを購入したのは今から12年前の2000年でした。当時は無線LANはほとんど普及していなかったため、手探りで導入したのを覚えています。パソコンにLANボードを取り付け、無線LANのメーカーのサービスセンターや販売店と何度もやり取りして、2週間ほどかかってやっと動きました。
 それから6年後の2006年、最初の無線LANが故障したため、2台目の無線LANを購入しました。そのときは買ってきた日に動きました。
 そしてくしくもまた6年後に3台目を買うことになったのです。
 それぞれの規格や導入方法や値段を比べると、6年毎の歳月はパソコン以上に大変な進歩を示しています。

1台目の無線LAN(2000年)
 ・機種:エアステーション(メルコ社)(機種名不詳)
 ・スピード:約10Mbps
 ・費用:52,480円
  (エアステーション、無線LANカード、スマートハブ、ストレートケーブルを含む)
2台目の無線LAN(2006年)
 ・機種:エアステーションWHR−AMG54(バッファロー社)
 ・スピード:54Mbps
 ・費用:11,800円   (無線LANカードつき、スパートハブは本体に内蔵、ケーブル不要)
3台目の無線LAN(2012年)
 ・機種:ロジテックLAN−W300N/P(エレコム社)
 ・スピード:300Mbps
 ・費用:3,480円
  (本体以外の付属品は不要)

 無線LANの形も小さくなりましたが、特に変わったのは、費用とスピードです。 
 なお3台目にはそれまでついていたアンテナがなくなりました。

1円クリックの現状(平成24年8月5日)

 平成24年8月5日現在の1円クリック募金の総額は、3億6748万3千円を越えています。
 4年11ヶ月前の平成19年9月5日に「1円クリック預金が1億5千万円を越えた」というブログを書きました。
 クリック募金は、インターネットの募金サイトからクリックすると、広告を出している企業がクリックした人に代わって、前もって決められた募金の対象に1円寄付する仕組みになっています。クリックは1日に1企業1回しかできません。現在は13の企業が募金を募っています。
 ちりも積もれば山となるで、1円ずつのクリックが約5年ほどの間に2億2千万円もたまりました。善意の結晶といえるでしょう。私はただクリックするだけで1円クリックできる8つの企業をクリックしています。毎朝電源を入れて受信メールをチェックした後、クリック募金のサイトに行ってクリックするのを日課にしています。
 以前使っていたパソコンが急に遅くなったため、一時は中断していたのですが、パソコンを買い換えた後は早くなったので毎日欠かさずクリックしています。
 クリックを重ねると称号が与えられます。別に実益があるわけではありません。一種のお遊びです。称号は今までのクリック数に応じて、「ゲスト」→「サポーター」→「コントリビューター」→「マスター」→「アンバサダー」→「?」と昇格します。わたしはまもなく3000クリックなので、今のところコントリビューターです。
 関心のある方は、「1円クリック」のキーで検索してみてください。

退任後の韓国大統領に対する評価は厳しい(平成24年8月17日)

 平成24年8月10日韓国大統領の李明博氏が竹島に上陸しました。李明博大統領は就任当初から「成熟した日韓関係」を重視し、実務的で未来志向が強く、日本との連携強化に熱心でした。
 それがなぜ変わったのでしょうか。韓国では12月には大統領選挙が行われます。憲法により再選はできません。大統領の支持率が17%にまで下がり、親族の不正問題などが発覚しています。また昨年には従軍慰安婦問題がクローズアップされました。大統領退任後の立場を考慮しているのではないかと思います。
 歴代の韓国大統領の退任後の動向を調べてみました。朴正煕が暗殺されて以後、韓国大統領が民主的に選ばれたのは全斗煥が初めてですがそれ以後を追ってみましょう。
  大統領    退任後
12  全斗煥  光州事件等により死刑判決、のち特赦
13  慮泰愚  光州事件や不正蓄財により懲役刑、のち特赦
14  金泳三  問題ない
15  金大中  在任中にノーベル平和賞受賞 問題ない
16  慮武鉉  在任中の収賄疑惑により自殺
 退任後の生活が幸せだった人のほうが少ない感じです。私の独断と偏見ですが、李明博氏もそれを心配しているのではないかと思います。

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