今月は弟の紀行文「東北紀行」と私の軽井沢への旅行記をお届けいたします。
 弟は、3月19日仙台、20日気仙沼へと旅しましたが、2日目の気仙沼の旅行をまとめたものです。
 私は5月15日〜16日軽井沢に行った時のことを書きました。日記風の旅行記は5月の手賀沼通信ブログに載せてあります。

特別寄稿
東北紀行−気仙沼への旅               新田自然


 東北への旅第2日、今日は今回の旅行の主目的である、滝田さん地蔵堂落慶法要への旅である。わたしにとっては、震災後初めて東北の被災地に足を踏み入れるという重い旅でもある。目的地は宮城県気仙沼。
 「気仙沼」
 不思議な名前である。まず「気仙」という呼び方が耳慣れない響きをもっており、「沼」という、わたしの故郷四国にはない湿地の自然がくっついて、若いときからこの見知らぬ町についていろいろと想像をめぐらしていた。地図から見ると、この地方だけが宮城県で、岩手県に大きく食い込んでいるのは、なにか理由があるのだろう。江戸時代の藩の領地争いや、明治新政府の、戊申戦後の東北に対する、気ままな線引きによるものかもしれない。厚い山地によって奥州街道から隔てられ、リアス式海岸で海と半島が入りくんでいるが、大船渡や陸前高田とひとつの地域を形成していると考える方が自然である。
 仙台に勤務した時、この地方に旅したことがあった。訪れた気仙沼の町は小さかったが、雰囲気はなぜか閉鎖的でなく、活気のある港町であった。遠洋漁業の基地という開放的役割がそうさせたのかもしれない。その夜、気仙沼大島という対岸の島に泊まったが、なんという魚だったか、大変美味かった記憶があり、入りくんだ港の風景と共に強く印象づけられた。今回の旅に出るにあたって、若かったあの頃を思い出して、センチメンタル・ジャーニーという気分があったことも否めない。

 東京からやって来る仲間との合流が気仙沼駅改札口、時間は正午頃だったので、ひと列車早く行き、気仙沼の街を見ておこうと、前泊の仙台を早く発った。仙台からの新幹線は速いが、一関から気仙沼までの路線は単線で、山を回ったり川に沿ったり、ドラゴンレールと呼ばれるごとく、大きく蛇行して、1時間以上かかる。おまけに発車本数が少なく、ずいぶん無駄な時間の使い方をしてやっと列車に乗った。車内は予想した以上に混んでいたが、待たされたぶんだけ、景色の見える好位置に座席を確保できた。車窓を眺めるのはなによりの旅の楽しさだ。
 座席の正面は40代と思しき女性だった。ベージュのコートに旅行かばん、旅の格好をしているように見える。どんな旅の目的を持った人だろうか、あまり話し好きとも思えない風情で、しきりに車窓に流れる風景を眺めている。旅先での会話は、景色と共に旅の楽しさを倍加させる。列車が「猊鼻渓」を過ぎた頃思い切って話しかけてみた。
 大船渡へ行くという人は思い出すように話し始めた。早口ではなかったが、かみしめるようにとつとつと話した。「田舎の家へ帰るんです」「母が津波で流されてまだ見つかっていません」「今日お彼岸なので、お墓に行こうと思って…。」「お墓に入れるものがなくて、結婚の時にもらった手鏡を入れました」思いもせぬ話に声を呑み込んだ。2年という月日がそうさせるのか、その人は淋しそうではあるが、時々笑みさえ浮かべて淡々と話してくれる。「大船渡を離れてもう25年になります」「あの時は汽車もなにも動かなくて、しばらくは帰ろうにも帰れなくて」「いま埼玉に住んでいます。やっぱり遠いですね」 うなずいているうち気仙沼に着いてしまった。大船渡へは新しくこの月より開通したBRTというバスで行くのだそうだ。震災で破壊された大船渡線はまだ全通していない。BRTとは高速輸送システム、鉄道線の跡地を利用したバス路線だそうで、本格復旧まで隣町と連絡船のような役割をこなすとか。

 JR気仙沼駅は、見たところまったく震災の跡を残していなかった。古い駅舎は高台にあって、ここまでは津波は来なかったらしい。時間があるので、しばらく駅前通を歩いたが、駅前に7〜8階建てのホテルが1棟あるだけで、古い商店街は古いまま、雑貨屋、米屋、酒屋など、古い業態の店がひっそりと店を開いている。車は通るが人通りはほとんどない。
 震災で陸上に打ち上げられた船を見ようと思い、やって来たタクシーに乗った。「気仙沼駅は助かりましたが、南気仙沼駅はやられました」「私は助かりましたが、道路が遮断され、家に戻れなくて線路を歩いて帰りました。トンネルがありまして、中が真っ暗で恐かったです」運転手氏はたんたんと話した。駅から坂道を下るにしたがい震災の惨状が姿を現す。まだ1階部分が修復されないままの建物、ゆがんだままの駐車場の柵、土台部分以外なにも残っていない建物跡、「ここいらは津波だけではないんですよ、津波のあとの火事でやられてしまったのです」やがて海岸に出る。「地盤が沈んでしまい、盛り土をしないと建築許可が下りないんです」乗客に聞かれるままに、多分何度も語ったであろう言葉がよどみない。
 気仙沼湾は深く入り込んでいて、わずかな陸地を取り囲むように山が迫る。沖合で発生した大津波が、湾の奥深くまで押し寄せてきたのが分かる。建物の壁に押しよせてきた潮の高さの表示があり、その高さに思わず戦慄が走る。ほどなく船が打ち上げられた現場に来た。80メートルあるという巨大な漁船が少し傾いて横たわっている。「修理のためドックに入っていたんです」。どれだけ流されてここまで来たのだろう、船底には流される際につけられた傷のラインが走っている。浮かんでいる船は見慣れているが、喫水線から下の船体を見るのは初めてだった。スクリューが地面にめり込んでいる。津波に乗って流されながら何十棟の家をえぐったのだろう。傾いた船は倒れないように補強され、供養のための花が供されている。「第18共徳丸」と読める。なにを穫る漁船だったのか、船籍は「福島県いわき市」とある。原発事故によって、母港を失った船には帰るところがなく、帰ったとしても再び働くことができるかどうか。2年間も晒された船は、陸に打ち上げられた鯨のように無惨に横たわっている。皮肉なことだが、それを訪れる観光客も多く、晒された残骸が大津波災害のモニュメントとなっている。保存か撤去かの意見があるということも新聞で読んだ。保存というプラスの意見と、撤去というマイナスの意見がぶつかったとき、保存という意見にはならないだろうと思った。「悲しい記憶は消し去りたい」という声に逆らうことは難しいだろうと。
 集合時間が来たので待っていたタクシーで駅に戻る。

 駅にはチャーターされたバスが待っており、列車の到着によりはき出された仲間達が続々と降りてくる。
 滝田さんの地蔵堂は、駅からそれほど遠くない国道から山沿いに入ったところにあった。建坪200uくらいか、黒いスレート葺き、白壁が落ち着いた雰囲気を醸している。津波もここまでは来ていないようだ。趣旨に賛同した人達の浄財で建てられたと聞く。そのお堂の前で滝田さんが待っていた。土地を提供してくれたという地元の人達も一緒だ。滝田さんも共に旅したあの頃からすると、それなりの時の経過か、眉には白いものが混じっている。 薬師寺副住職より「気仙沼みちびき地蔵」と名付けられた地蔵様は、等身大より若干小さいか、楠の一木造りで、小鼻のふくらんだ個性的なお顔をしている。もう20体も作ったという仏像は見事な出来栄えで、40日で彫り上げたという。

 滝田さんとは、俳優滝田栄氏のことで、彼との出会いは、学んでいた禅の会「赤根塾道友会」有志約20名で道元禅師の跡を中国に訪ねることになり、先生の紹介で、同行することになったのが滝田さんだった。先生は「みなさんさえよければ1人同行させたい男がいます。まあ会って見りゃ分かりますけど、真面目な仏教徒ですよ」とだけいって、にやっと笑って名前を仰らなかった。
 滝田さんは明るく、ウイットに富んでいて、ホテルでもバスの中でも、楽しい旅になった。当時の中国、どこに行っても日本人観光客であふれ、滝田さんを見つけたオバサン達が嬉しそうにアタックしてきて並んで写真に収まった。シャッター押しは何度も引き受けさせられた。オバサン達はいったものだ「中国旅行はたいしたことはなかったけれど、ここで滝田さんに会えたことが最高によかった」と。俳優稼業も楽ではなく、彼はいかなる注文にも、にこやかに対応した。
 旅の最終日、空港の待合室で滝田さんから「あれ、うまくいきましたよ」と嬉しそうに報告があった。2人で歩いていて、怪しげな売り子から名産の石を、たしか10万円で買わないかと持ちかけられたのだ。2〜3割だったか、安くするというのを、1万円に値切って買ってみせると言うので「無理ですよ」と言って別れたのだった。ハードネゴだったそうで、成功したことに喜ぶ無邪気な笑顔があった。「さすが、お見事ですね」と応じたが、はたして商談に勝ったのは彼だったか、売り子だったか、あるいは彼も売り子もまあお互い満足の泣き別れだったか…。
 読経を聞きながら、もう10年以上も前の話を思い出していた。

 落慶法要が終わり、バスで気仙沼の街を案内していただく。湾の奥の山にドライブウエーがあり、そこから気仙沼の町を俯瞰した。湾の入口には気仙沼大島があったが津波の防波堤とはなり得ず、湾内の重油タンクの破損による火災で、船や建物は翌日まで燃え続け、町は無惨に破壊された。人口7万弱の町で、死亡・不明者2千2百人超、避難者9千人はいかに爪痕が厳しかったかを物語る。
 バスのドライバー兼案内役の人も津波の被災者であった。実家の家屋はすべて流されてしまったそうで、「家族に死傷者が出なかったのがせめてもの救いです」と笑顔で静かに話した。
 もう1泊してゆく仲間と港で別れた。仲間の1人は気仙沼大島に泊まり込み、ボランテイアで島の復興に協力しているようだ。彼の話では、今夜は島の漁師なども加わって、語り合いの場が設けられるとか、押しよせる津波に向かって船を出し、大波を乗り切った船長も来てくれるそうだ。もう1泊すればいろんな話が聞けただろうに。
 倉庫を改造したらしい仮設のマーケットでイチゴ汁(ウニとアワビのスープ)、フカヒレ、干物など名産物の買い物をして駅へ戻る。
 バスに乗って車窓からもう一度市街地を眺める。瓦礫こそ片付けられているが、空き地が多く、まったく変わってしまった街並みに、懐旧にふける気持ちにはなれなかった。来る前には、復興で活気ある市街を予想していたが、わずかに盛り土をされたところに建設機械が入っているだけで、復興の槌音はこの南3陸の深奥部まで届いていない。昨日の仙台との落差の大きさを感じさせられる。

 運命とはいえ、災害によってもたらされた不条理な彼我の落差をどうとらえるか、家族に死傷者を出した人とそうでない人、津波で家屋敷を失った人とそうでない人、復興景気で元気の出てきた地域とそうでないところ、さらに言えば震災で大被害にあったところと、われわれのようにまったく被害に遭わなかったところ、「痛みを分かち合って」などという言葉はけっして軽々しく口に出せないと思った。われわれは、一方では瓦礫の焼却受け入れを、ピケを張ってでも阻止する国民でもある。わずかな寄付など免罪符にはなり得ないものだとも…。
 きょう出会った被災された人達はみんな、淋しそうではあるが笑みさえ見せて話してくれた。けっして能弁ではないが、必要なことはきちっと話してくれた。東北の人らしい笑顔のおもてなし、あきらめ、2年という年月と、人はどのような状況にあっても、わずかな希望さえあれば笑顔になれるのだという実感。
 それにしても…、と思わずにはいられない1日であった。

軽井沢旅行記

 平成25年5月15日〜16日に妻と二人で軽井沢に行ってきました。軽井沢は上野駅から新幹線で1時間足らず、我が家からでも2時間以内に行くことができます。
 軽井沢はコンピュータ関連企業に勤務していた時、営業マンとシステムズエンジニアの新入社員研修の最後コースで何度か合宿を体験しました。今から30年以上も前のことです。それ以後も何度か立ち寄りましたが、観光を目的に行くのは今回が初めてでした。

1.サンダンスリゾート体験宿泊
 軽井沢に行くと決めたのは、楽天からのダイレクトメールが妻の誕生日の前に届いたからです。
 サンダンスリゾートの体験宿泊のお誘いでした。
 サンダンスリゾートは会員制のクラブです。体験宿泊しても必ずしも加入する必要はないとのことだったので、低料金にもつられて利用してみることにしました。
 実は5月15日から海外旅行に行く予定でした。ところが私の体調があまりよくなかったのでキャンセルしていたこともありました。
 サンダンスリゾートのシステムについてはチェックイン後に詳しく説明がありました。
・利用できる施設は国内29か所、海外70ヶ所以上
・入会時に約146万円、2年度以降は5万4千 円を支払うと年間60ポイントが与えらる
・施設を利用すると、季節や曜日や部屋などに応じて決められたポイント数が引かれる
というような概要でした。
 魅力的なところもあり、もう少し若ければ加入を考えてもよいかと思いましたが、あとどれくらい元気で旅行できるかわからず、今回の体験旅行だけを楽しませてもらうことに決めました。

2.軽井沢の5月は春の輝き
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 5月中旬の関東は夏を思わせる暑さでしたが、軽井沢は八重桜や山桜やつつじが満開、みずみずしい若葉が芽吹き、初夏にもかかわらず春の真っただ中といった感じでした。
 軽井沢駅に到着してすぐ、中軽井沢の星野エリア行きのシャトルバスに乗り、ハルニレテラスに行きました。妻が行ってみたいところの一つでした。
 春楡の木々と川に囲まれたウッドデッキのテラスのレストランで昼食をとりましたが、緑の若葉が眩しく、目にしみました。

3.歴史を残す軽井沢
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 ドライバーの話では、軽井沢はカナダ人の宣教師のショーが避暑地としての歴史を開き、その後口コミで外国の要人たちが集まったとのことです。  2日目、ちょっと離れたところにある白糸の滝と旧碓氷峠にある熊野皇大神社に行くため観光タクシーに乗りました。そのドライバーは「私は軽井沢一のものしりドライバーです」と言って、軽井沢の歴史や別荘地の持ち主の裏話など、その場所まで行って車を止めながら話してくれました。鳩山ファミリーの3代に渡る別荘の相続や中曽根康弘が不動産会社に高値で売り付けたことなどはガイドブックには出ていない話でした。  軽井沢には多くの個性的な教会があります。写真の聖パウロカトリック教会は軽井沢を代表する教会で結婚式を予約するのは大変なようです。  ハルニレテラスに近い石の教会も石とガラスと、その隙間からさす光がなんとも言えず幻想的でした。
4.変わりゆく軽井沢
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 長野新幹線軽井沢駅の南口に広大なショッピングセンターができました。もとはゴルフ場のあった場所で、軽井沢・プリンスショッピングプラザが正式名称です。
 ゴルフ場を活かした広大な芝生の広場を囲んで、味の街を含む6つのエリアから構成され、アウトレット店舗137、飲食店舗30を含む、217店舗があります。
 新しい軽井沢の顔と言えるでしょう。

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