今月は弟のエッセイと東北夏祭りの旅行記をまとめました。

特別寄稿
鉄道にからむ音の記憶      新田自然


東海道線品川駅ホームの「発車メロディ」が好きである。発車メロディとは発車ベルが進化したもので、発車直前に車掌によって鳴らされる「ポロロン・ポロロン」といったあの電子音である。品川駅のそれはユニークで「汽笛一声新橋を…」という鉄道唱歌のメロディに重なって、列車の「汽笛」が響くのである。もちろん蒸気機関車の汽笛である。あの「ブゥォーッ」という音を聞くと、懐旧の念にとらわれるのだ。これは他の国において聞くことができない音だろうから、日本人にのみ与えられた情念なのかもしれない。故郷に思いを込めたような、この発車メロディは、山手線や、京浜東北線のホームでは鳴らされず、東海道線のホームのみである。全駅の発車メロディを聞いたわけではないが、どの駅でも同じような電子音が響くなか、ユニークさでは類を見ない。不思議なのは、この発車メロディが流れるのは、歌詞に詠みこまれた「新橋駅」ではなく、なぜか「品川駅」なのである。

 「汽笛」も夜汽車のそれがいい。夜行列車は沿線の人に遠慮してか不用意に汽笛を鳴らさなかったので、しょっちゅう耳にしたとは思えないが、暗闇を往く列車の、あの暖かい光の車窓と、物悲しい汽笛は、セットになって心に残っている。
 鉄道の電化が進み、汽笛も聞くことができなくなって、警笛は電気機関車の金属音になってしまった。さらに新幹線が旅の主役になって、夜行列車はほとんど姿を消し、列車はどんどん無口になっていった。途中、駅弁を買うこともなくなり、隣り合わせた人とも口を利くことはなく、旅は静かに、快適ではあっても、無味乾燥なものとなっていった。旅をめぐる音の変容は、我々から汽笛への思いをも消し去っていった。

「蒸気機関車のドラフト音」もいい。「シュシュ、シューッ」と蒸気を吐き、「ボッボッボッ」と煙を吐きだす。最初はゆっくり、やがて徐々に間隔を詰め、ダイナミックに動輪が回り始める。動輪3つのC型はなんとなく軽快で、動輪4つのD型はやや重々しい。大きな鉄のボイラーが、蒸気と煙を吐くのもいい。煙を勢いよく吐いた機関車は生き物のごとく山道や草原、あるいは海岸線を疾駆する。幼いころ、鉄道の機関士にあこがれたことがあった。あの、人の手ではとても動かしえない、どでかい機械を走らせて、鋭く警笛を鳴らしたかったのかもしれない。
 蒸気機関車ほど生命体が乗り移った機械を見たことがない。本来無機質な鉄のかたまりは、生き物のように石炭を食って力強く走り、煙や蒸気を排泄する。「どきなーっ」と大声を発し、走り出したらなかなか停まれない。まさに巨大な生命体そのものだ。

 次に好きなのが鉄橋を渡る音だ。広島郊外の山陽線に沿った町に住んでいたことがある。広島駅と宮島駅のちょうど真ん中あたり、海岸に近いところだった。海に流れ込む川の、30メートルくらいの鉄橋だった。夜遅くなって周囲が静かになると、鉄橋を渡る列車の音が聞こえてくる。「ゴトトン、ゴトトン、ゴトトン」。列車が鉄橋を渡っている姿が目に浮かんでくる。
 まだ小学校の低学年だった息子たちにせがまれて、その鉄橋に早朝のブルー・トレインを見に行った。やっと白み始めた東の方角から下りのブルトレがやってくるというのだ。今だったら大変なことになるけれど、「レイルに耳をつけてごらん、ブルトレが来たら音でわかるよ」と、そそのかしたことがあった。その時は音よりも前照灯が先に見え、慌てて退避したが、自分でも子供のころやったような記憶がある。先日「そんなことをしたな」と息子に話したら、あっさり「覚えてない」と一蹴された。

 停車場はすぐ知れた。切符も訳なく買った。
 乗り込んでみると、マッチ箱のような汽車だ。
 ごろごろと五分ばかり動いたと思ったら
 もう降りなければならない。
(夏目漱石 坊ちゃん)

 幼いころ、郡中という松山郊外の小さな町に育ったが、そこから松山まで伊予鉄という列車が走っていた。「マッチ箱のような汽車だ」と漱石が書いたその汽車である。漱石が乗った三津浜港からの高浜線は、当時もう電化されていたが、私の町からの郡中線はまだ汽車だった。汽車と言っても、機関車は、もうおもちゃのようなものであった。客車はマッチ箱のように寸詰まりのサイズで、たしか五輌編成くらい、車両は連接されていたが、ゆるい連接方式だったようで汽車の進行につれ「ガチャ、ガチャ」と大きな音を立てて、横揺れが激しかった。あの鉄がこすれあう音も今となってはなつかしい。汽車は「ピーッ」と悲鳴のような汽笛を鳴らして走っていた。

 駅の雑踏の音もなんとなく居心地がいい。旅行者や物売りの声、響きあう足音、アナウンス案内、それやこれやが混じりあって独特の雰囲気を醸し出す。特に「東京駅の地下コンコースの音」がよい。新宿駅のそれとは違うのである。空港はもっと違って出発か到着かで異質である。東京駅は旅行者と、通勤者が程よく混じりあって交響曲を奏でるのだ。15年間、通勤に東京駅を利用したが、かつての上野駅も同様の音がしていたかもしれない。啄木は上野駅にふるさとのなまりを聞きに行くと詠んだが、いまの上野はもはや終着駅ではなくなって、乗換駅となってしまっているようだ。もう全国でターミナルと言えるのは東京駅だけとなってしまった。その東京駅も変貌著しく、デパ地下になりつつあり、微妙なハーモニーが崩れてしまうかもしれない。駅の雑踏の、あの旅への期待と、ふとした孤独感、そんな音が消えてしまうかもしれない。
 汽笛の話に戻るが、アリスの歌に「遠くで汽笛を聞きながら」という名曲、海援隊のヒット曲に「思えば遠くへ来たもんだ」というものがある。なんとなく2つの曲に共通するものがあるな、と感じたのは「汽笛」であった。寺山修司にも「おいらの故郷は汽車の中」というのがあり、この時代の人は、人生、旅、汽笛、というややステレオタイプな発想をするようだ。中原中也の詩にも「頑是ない歌」というのがあり、詩や歌詞の趣意は同じところに行き着く。人が汽笛に惹かれるのは、それがホーンなどのように合成音でなく、人生の吐息を吐くごとく、空気を吐きながら響いてくるからかもしれない。だが、もう汽笛がなくなった今、現在の若者には理解されず、せいぜいこの時代の人までしか持ちえない感傷だろう。

 思へば遠く来たもんだ
 十二の冬のあの夕べ
 港の空に鳴り響いた
 汽笛の湯気や今いずこ
 (中原中也 頑是ない歌)

 悩みつづけた日々が まるで嘘のように
 忘れられぬ時が 来るまで心を閉じたまま
 暮らしてゆこう
 遠くで汽笛を聞きながら
 何もいいことがなかったこの街で
 (谷村新司 遠くで汽笛を聞きながら)

 眠れぬ夜に酒を飲み 夜汽車の汽笛聞くたびに
 僕の耳に遠く近くレールの響きが過ぎてゆく
 思えば遠くへ来たもんだ 振り向くたびに故郷は
 思えば遠くへ来たもんだ 遠くなるような気がします
 思えば遠くへ来たもんだ ここまで一人で来たけれど
 思えば遠くへ来たもんだ この先どこまでゆくのやら
 (武田鉄矢 思えば遠くへ来たもんだ)

 おいらの故郷は汽車の中 汽車で生まれた
 汽笛はひびく さびしげな 胸のこだまよ
 どこへ行こうと人生は さよならだけさ
 (寺山修司 おいらの故郷は汽車の中)
 鉄道にまつわる音には、人それぞれに思いが込められている。

東北3大祭り見物記

 平成26年8月5日〜7日まで、クラブツーリズムのツアー「秋田・青森 熱狂の東北二大祭り 世界遺産中尊寺と名湯めぐり」に妻と参加しました。最終日に仙台七夕祭りを見たので、東北三大祭りを見たことになります。
 なお日記風の旅行記は、8月の手賀沼通信ブログに載せてあります。

1.青森ねぶた祭り考
 青森ねぶた実行委員会が発行したガイドブックに次のように出ていました。

 「青森ねぶた祭りは七夕祭りの灯籠流しの変形であろうと言われていますが、その起源は定かではありません。
 奈良時代に中国から渡来した「七夕祭」と古来から津軽にあった習俗と精霊送り、人形、虫送り等の行事とが一体化して、神と竹、ローソクが普及されると灯籠となり、それが変化して人形、扇ねぶたになったと考えられています。
 現在に受け継がれてきたねぶたは大型化し、毎年22台程度制作され、その費用は制作、運行等、祭期間中の経費を含め1台あたり2千万円ほどと言われています。」
(画像のクリックで拡大表示)

 青森ねぶた祭りは8月2日から7日まで行われます。2日から6日までは19時10分にスタートし21時ころに終了します。運行コースは決められており、長方形のコースを一周すると終了です。ねぶたはスタート時までにねぶた基地を出てコース上に並びます。そして花火の合図で一斉に動き出します。
 ねぶた祭りは雨でも危険な場合以外は中止になることはありません。
 ねぶたはねぶた師によって制作されます。お祭りが終了すると解体されます。6日間の命です。

2.雨の中のねぶた見物
 上野駅を出発するときは真夏の太陽が容赦なく照りつけるかんかん照りのお天気でしたが、終点の盛岡駅は曇り空、バスに乗り換えて北に向かう途中で雨になりました。
 青森市内に到着後、食事前にねぶたが集結している基地のねぶたラッセランドにねぶたを見に行きました。その時は雨は降っていませんでしたが、雨に備えて超特大のビニールシートをねぶたにかぶせる作業が行われていました。ねぶたは針金と和紙で作られているため雨には弱いのです。ずらりと並んだねぶたは壮観でした。正装した跳人(ハネト)も大勢集まり出番を待っていました。
 アップルパレスホテルで早めの夕食をとり、雨の中を桟敷席に向かいました。桟敷席はパイプ椅子を歩道に並べたもので4列になっていました。私と妻は一番前の列でした。桟敷席は傘はさせません。ポンチョとズボン型の雨具を付けました。
 19時10分花火の合図でねぶた祭りがスタートしました。私たちの席はラッキーなことにねぶを先頭から見られる場所にありました。
 まずオープンカーに乗ったミスねぶたがやって来ました。大太鼓が続き、それから1番目のねぶたです。
 1グループのねぶたは、ねぶた囃子とハネトと大型のねぶた本体からなっています。ねぶた囃子は、太鼓、笛、鉦(かね)からなっています。ハネトは正装して、「ラッセラー、ラッセラー」の掛け声とともに飛び跳ねます。ゴムの車輪に載せられた大型ねぶたは時々止まってはその雄姿を披露します。次々にやってくるねぶたは見事でした。雨の中でも明るさは衰えません。内部には電球や蛍光灯を800〜1000個ほど取り付け、発電機で照らしているようです。
 19時50分頃雨が激しくなりました。篠突く雨の中をしばらく頑張っていましたが、20時5分に見物を切り上げホテルに戻りました。

3.秋田竿燈まつり考
 秋田竿灯まつり公式ガイドブックに次のように出ていました。

 「竿燈は、真夏の邪気を祓い清める「ねぶり流し」が原型といわれている。発祥は宝暦年間(1751〜63)。秋田藩津村淙庵の紀行文「雪の降る道」(1789)には、「長き竿を十文字に構え、ともし火あまたに掛け、太鼓を打ちながら町を歩き、そのともし火の数、二丁、三丁に及ぶ」と記されている。」

 約800メートルの竿燈大通りには約260本の竿燈が出て、提灯の総数は約1万個になります。竿燈の種類は、幼若、子若、中若、大若で、一番大きい大若は、長さ12メートル、重さ50キロ、64センチの提灯が46個ついています。
 ねぶたは前に進みますが、竿燈はその場を動かずに演技を見せます。
 演技は2人で持つ「流し」、1人で持つ「平手」、「額」、「肩」、「腰」の技があります。「腰」が一番高度な技になります。
 竿燈には、太鼓と笛の竿燈囃子があります。
 竿燈は8月3日から6日までの4日間です。雨がひどいときは中止になります。

4.雨の中の竿燈見物
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 ツアー2日目は朝から雨でした。午後角館に立ち寄り、武家屋敷を見物した時は雨は上がっていましたが、秋田カントリークラブのレストランで早めの夕食をとっているとき、大雨になりました。
 実施するかどうかは、最終的には実行委員会で決めたようですが、大会最終日なので全国からの観光客のために、大雨でも無理して実施してくれたのでしょう。ただ、途中で終了になりました。
 竿燈の桟敷席は道路の歩道でなく、中央分離帯に設置されていました。階段式の席で、私と妻の席は4階の最上段でした。
 前日と同じポンチョとズボン式の雨具を付けました。やはり傘は禁止です。
 予定より15分ほど遅れて竿燈の一団がやってきました。かぶせていたビニールシートをとって早速演技が始まりました。手、額、肩、腰などで竿燈を支えます。失敗して倒れそうになる竿燈もありました。
 前後を見渡すと竿燈がずらりと立っていました。圧倒的な迫力でした。
 雨が激しくなり、19時50分頃途中で終了となりました。
 2日連続の雨の中でのお祭り見物は、スリリングで強烈なインパクトがありました。貴重な経験でした。

5.37年ぶりの仙台七夕
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 1975年6月から1978年3月まで転勤で仙台に住んでいました。今回の七夕祭り見物は、1977年以来の37年ぶりのことです。
 観光客が七夕飾りを見るのは、中央通りと東一番町通りに集中します。どちらも豪華で華やかな七夕飾りでいっぱいでした。
 今年の七夕祭りのテーマは「復興と鎮魂」でした。写真の飾りは、仙台市内190の小中学校の生徒が東北の希望と復興の願いを込めて折った折鶴の七夕飾りです。

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