今月は弟の山行記と私の旅行記を載せました。
 茅ヶ岳は私も20代に生命保険会社のハイキング部にいたとき、後輩の新人歓迎山行で登ったことがあります。
 78歳の今ではもう高尾山か筑波山くらいしか登れませんが、若い時に熱中した山登りは素晴らしい思い出となっています。

特別寄稿
喜寿の茅ケ岳山行記
       新田自然


 三井海上山岳部の忘年山行に誘われて茅ケ岳に登ってきた。茅ケ岳は1704メートル、山梨県中央部にあって、南に富士山、西に南アルプス、北に八ヶ岳、東に奥秩父などが眺められる見晴らしの良い山で、「日本百名山」の著者深田久弥氏終焉の地として知られている。      もう12月、異常寒波が襲来し、四国でも雪で国道が閉鎖されているという。当日の山頂の気温はマイナス7度くらいだと予想され、喜寿を過ぎた身には、はたして登れるだろうかと、参加にはずいぶん迷った。山岳部マネージャーKさんからの連絡メールでは、携行品にアイゼンの記載がなく、南斜面を登るルートであり、私も過去2度登頂の経験もあって、参加することにした。それになにより、前回登った素晴らしい眺望をもう1度味わってみたかったのだ。直前に登った奥多摩や高尾山の時の体調から、なんとなくいけるのではないか、との自信もあった。  藤沢から中央本線へは交通の便が悪いことおびただしく、3時間が必要で、バス、小田急江ノ島線、JR横浜線を乗り継いでやっと八王子、そこから新宿発の特急「スーパーあずさ」に乗るのである。韮崎駅前からタクシーで深田公園駐車場まで、5時台で家を出たにもかかわらず、登頂開始は10時であった。総勢27名、現役組がほとんどで、女性が多く、OBは5名くらい、最近は社外勤務も多くなって、現役・OBの区別がよくわからからないが、いずれにせよ、私は最年長だと紹介された。
 茅ケ岳は百名山ではないが、深田氏の遭難によって、百名山並みの有名な山となった。深田久弥は、作家としては毀誉褒貶のある人であったが、この著書によって同時代の作家を超えた存在になった。公園には深田氏の直筆による「百の頂に、百の喜びあり」と彫られた碑が建てられ、かなり広い駐車場と、トイレが整備されている。
 もうかなりの車が来ている。パーティの人数が多いので点呼があり、準備運動を終え登山開始となる。カヤトの原から、カラマツやアカマツの樹林帯を抜け、ミズナラの大木が目に入るようになる。ほどなく女岩、なぜか立ち入り禁止、どうも落石の危険ということらしい。ここから急坂となる。深い落ち葉にうずもれた登山道は、不規則な岩が突き出て歩き難く、段差も大きくなる。

 ここで三井海上山岳部について触れる。つい先日、山岳部創立60周年の記念行事があった。高尾山に登って、新宿でパーティをやるというのだ。会社の息のかかっていない完全な同好会で、60年も続いていることを祝っての会であった。参加者は全国から60名が集まった。私が山岳部に入部したのは、長い地方勤務の末、東京に赴任した時であるから、入社22年目であった。当時はまだ「大正海上山岳部」といった。以来今日まで関係は延々と続いているが、最近は低山のみの参加で、年1、2回、ありがたいことにこんな高齢者の参加も歓迎(?)してくれるのである。山の会に入って、何山を登ったか、もうわからないけれど、雨に降られようが、吹雪かれようが、どの山行を振り返っても楽しい。それは労力をいとわない歴代のマネージャーの努力と、会社の関係を一切持ち込まない、素晴らしい仲間との出会いがあったおかげと思っている。

 女岩からの急坂で、足には自信があったつもりが、徐々に腰にかけて疲労痛が来はじめ、歩行速度が落ちてきた。どうあがいても先行者たちから遅れ始める。Y君やS君が前後についてくれ、いろいろ面倒を見てくれる。Mさんは「わたしが付き添って、行けるところまで行きます」とまで言ってくれるが、でも私は何としても頂上に立ちたかった。もう最後の挑戦だと、ここまでやってきたのだから…。見かねたY君がダブルストックを貸してくれた。使ってみて驚いたことに、急に腰の痛みが消え、比較的楽に歩けるようになった。やがて尾根筋、頂上に程近いところに日溜りの雑木林があり、そこで昼食。思い思いの場所で、湯を沸かしてラーメンを食ったり、握り飯をほうばったりしている。深田さんの終焉の地はすぐ傍にあった。
 控えめな石碑が立っている。彼は食事を終えて立ち上がり、数歩歩いて前方につんのめるように倒れた。脳卒中だった。天気は良かったようで、もうむくろとなった彼のそばで、富士山が刻々と色を変えていったと、同行者の手記にある。

 山頂は登山者でいっぱいの状態であった。10畳くらいの広さか、岩で覆われていて、中央に周囲の山の表示板があり、数センチの雪が岩の間を埋めている。南アルプスは見えるが雪雲に覆われて、地蔵のオベリスクはかすかに、甲斐駒も見えず、金峰の五丈岩も確認できない。富士山も7割くらいしか見えない。
 でも私は満足であった。もう来られないと思っていた1700メートルの頂上に立ち、仲間に祝福されてここにいる、と。人間、若干の体力とちょっとばかりの意志さえあれば、やれないことはないのだ。もし「やはり無理か」と家に残っていたなら、いま時分、たぶんテレビのニュース番組でも見ていたかもしれない。しかしわたしはいま、この茅ケ岳の頂上にいる。いま感じている充実感を大切にしよう。多くの人達の力を借りたが、それでも自力で登りきったのだ。

 下りは別ルートだった。勾配はきつかったが、岩の露出の少ない歩きやすいルートだった。数人がわたしに付き添って下ってくれ、ザックも持ってくれるという。楽しい昔話をしながらの下り道はいたれりつくせりの嬉しい下りだった。
 3時に駐車場につく。「下りはコースタイムどおりですよ」と褒められたが、それは多分無理だと予想されていたからであろう。ほとんどのメンバーは石和温泉で忘年会、日帰りは2人だけ、甲府在住のOさんの車で甲府駅まで送ってもらった。

 忘年山行はこの山岳部で数十年続いている行事で、ほとんどは乾徳山民宿「和楽荘」で開かれていたが、宿の人たちの高齢化もあって閉館され、石和温泉になったようだ。
 和楽荘は、その造りからむかしの蚕農家が開いたと思われ、くすんだ柱、3階建てと思われる大きな家であった。座敷には歴代の住人、おじいちゃんおばあちゃんの写真が飾られ、表彰状や、子供たちの絵が飾られたりしていた。普段は居間として使っていたようで、猪豚鍋や花豆の煮物、地元野菜の料理などが並んだ。自家製の葡萄酒もふるまわれ、大いに呑み、歌い、夜中まで騒いだ。座敷の周囲は廊下で、雨戸をあけると夜空が広がった。真冬の星空が美しかった。南東に輝く星座があり、「あれがオリオン座よ」と教えてくれた人がいた。酔った体に冬の夜の寒気が快かった。
 翌日は餅つきが朝飯で、庭に臼が置かれ、もちつき大会となった。みんなでかわるがわる杵を持った。つきたての餅をあんこや黄粉、大根おろし、納豆などをまぶして食った。納豆餅は苦手だったが、搗きたての餅は極めてうまかった。同じ行事が毎年繰り返されたが、最後のほうは餅つきのやり方を知らぬ若いメンバーが増え、「餅は腕でつくもんじゃない。腰でつけ」などと私は指南役に回った。
 いつの間にか時代が過ぎていった。

 甲府発特急「かいじ」は、カーブの多い中央本線のレールを車体を左右に傾がせながら爆走している。ビールとおつまみを頂きながら今日を振り返っていた。満足感に浸りながら、けだるい疲労と倦怠。軽いまどろみ。

 ありがとう山の仲間たち、今日の山行を心から感謝する。思えば、深田さんの逝った歳を8年も越えてしまった。でも、あと少し時間を与えてくれるなら、それらを大切にして、また来年もカラマツの新緑を見に行こう。ナナカマドの燃える秋を見に行こう。

神戸ルミナリエ・嵐山花灯路・なばなの里見物記

 平成26年12月11日から13日までクラブツーリズムのプレミアムステージ「イルミネーション会場から徒歩圏内のホテルに宿泊 夫婦限定 神戸ルミナリエ・嵐山花灯路・なばなの里」という長いタイトルのツアーに妻と参加しました。
 タイトルにあるとおり、なばなの里を除いて12月に行われるイルミネーション見物が中心のツアーです。イルミネーション見物は暗くなってからです。そのため3日間とも朝はゆっくり出発、昼間はおまけのような神戸と京都の市内自由散策が組み込まれていました。
 神戸では北野地区の異人街で4か所の異人館を見て回り、京都では東山区で、丸山公園、八坂神社、花見小路、建仁寺などを回りました。
 日記風の旅行記は2014年12月の手賀沼通信ブログに載せています。

1.20年目の神戸ルミナリエ

 1日目は神戸ルミナリエです。
 神戸ルミナリエは1995年1月17日に発生した阪神・淡路大震災で大きな被害を受けた神戸に「復興の明かりをともそう」という目的で始まりました。2014年は20回目になり、開催期間は12月4日から15日まででした。
 旧居留地の仲町通りの途中から、東遊園地まで、LEDを使用したイルミネーションで光いっぱいの街が出現します。2014年のテーマは「神戸夢と光」でした。
 私たちはホテルオークラの35階のレストランで食事をした後、見物に出かけました。
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 ルミナリエの玄関口は壮大なスケールの「フロントーネ」です。そこから約270メートルの「ガレリア」と呼ばれる夢の回廊が続きます。途中ではユニフォームを着た若い女性たちが、ルミナリエを続けていくための100円募金を募っていました。私たちも感謝の気持ちを込めて献金しました。
 東遊園地にはフィナーレを飾る宮殿のような「スパッリエーラ」が輝いていました。その中には「カッサ・アルモニカ」と呼ばれる光の記念堂がありました。
 遊園地には単体の「ソロピース」も立っていました。
 夕食前に下見に出かけた仲間の話では、すでに大勢の人たちが詰めかけて点灯を待っていて、大変な混雑になるだろうとのことでした。
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 私たちはホテルを19時20分に出発しました。遅く出たのがよかったのか、渋滞することもなく歩けました。スピーカーから「立ち止まって写真を撮らないでください」と、ひっきりなしに流れていましたが、十分立ち止まって写真を撮ることができました。
 ルミナリエ入り口の「フォロントーネ」は想像以上に美しく迫力がありました。一方通行なので帰りは見られませんでしたが、「ガレリア」も東遊園地のすべてのイルミネーションもたっぷり楽しみました。以前から見たいと言っていた妻も大満足でした。
 神戸は震災後20年が過ぎ、観光客の目からは完全に復興したように見えます。しかし家族や親せきや友人などを亡くした方の心の傷は容易には癒えることはできないと思います。ルミナリエがその方々のために大きな働きをするよう祈ってやみません。

2.日本情緒たっぷりの嵐山花灯路
 2日目は嵐山花灯路です。
 Wikipediaによると、「京都・嵐山花灯路は、12月中旬に京都の嵯峨、嵐山周辺地区に約2500基の行燈を点し、夜の散策を楽しむ趣向の2005年12月から始められた『灯り』をテーマとする観光イベントである」とありました。
 2014年は10回目、12月12日から21日まで開催されました。行燈だけでなく、ライトアップも大きな呼び物になっています。ルミナリエのイタリア風の豪華な光の饗宴とは違い、純日本風のほんのりとした趣のある光の宴です。
 私たちは夕食を済ませて19時5分花灯路見物に出発しました。食事中降り出した雨もちょうど上がったところでした。
 宿を出たところから目的地の竹林の小径までずっと行燈がともった「灯りと花の路ルート」になっていました。
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 やや大きな行燈の立ち並ぶ中之島公園を抜け渡月橋を渡りました。渡月橋からは桂川に沿ったライトアップが見られました。
 長辻通りの途中から左に折れて小さな道に入りました。野宮神社の裏を通って、大河内山荘まで行きました。竹林が多く、山荘の手前は道の両側に竹林が茂り、それが見事にライトアップされていました。
 帰りは来た道を戻りました。灯りはやはりLEDでした。

3.光のショーのなばなの里
 3日目はなばなの里のイルミネーションです。
 なばなの里は三重県の木曽川と揖斐川に挟まれた桑名市長島町にある花の公園です。そこでは10月下旬から3月下旬まで、日本でも有数のイルミネーションがおこなわれます。
 神戸ルミナリエと嵐山花灯路はふだんは道路や道として使っているところにイルミネーションや灯りを飾るのですが、なばなの里は最初からイルミネーションを目的に作られています。したがって期間も10月下旬から3月下旬と5カ月間も実施されています。
 またルミナリエと花灯路は一部で色が変わるくらいで静的なイルミネーションですが、なばなの里のメインテーマのイルミネーションは色が変わるのに加えて動きが加わった動的なイルミネーションです。
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 今年のメインテーマは「ナイアガラの滝」でした。1クールは青い水が流れるナイアガラの滝から始まって、色が何色にも変わり、滝の水が凍ったり、滝の前を鳥が飛んだり、最後は滝の上に花火が打ち上げられて終わります。そこで観客が動きだすという仕掛けになっていました。
 点灯時刻は17時でした。16時前に着いたので、広い公園の中をゆっくり見物するつもりでしたが、雨が降ってきました。天気予報は1日晴れだったため、傘はバスのトランクの中です。仕方なく支給されたミールクーポンを入場料に当てて屋内のベゴニアガーデン入りました。ここにはイルミネーションはありませんが、見事な花でいっぱいでした。
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 雨がやんだので外に出てみると公園の通路は人で埋まっていました。後ろから押されるまま、ちょっと人波が途切れた場所に進みました。とりあえず17時まで待とうと、並んだところが偶然にも公園を取り巻いている人並の先頭でした。前に進むと間もなく、200メートルの光のトンネルに入りました。
 そこを出た所が、ナイアガラの滝の会場でした。
 帰りは100メートルの光のトンネルをくぐり、公園のイルミネーションや紅葉のライトアップを見ながら、出口へと進みました。
 なばなの里は11か所のイルミネーションと、3か所の紅葉のライトアップがありました。

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