今月は弟のエッセイと私の旅行記です。
 朝ドラはあまり見ないのですが、私もマッサンは必ず見ました。見られないときは録画して見ていました。私にとってウィスキーは青春時代の飲み物であり、それがどのようにして生まれたかをドラマを通じて知りたかったからです。マッサンとその妻エリーを演じた俳優の好演にも魅せられました。

特別寄稿
マッサンというテレビドラマを見て     新田自然


 NHKの連続テレビ小説『マッサン』が終わった。この高視聴率を誇った朝のドラマは面白かった。ニッカウィスキーの創設者、というよりもジャパニーズウィスキーの父とも呼ばれる人、マッサンこと竹鶴政孝氏の半生を描いたドラマだった。ドラマはマッサンの妻エリー(本名はリタ)を中心に展開されてゆく。
 ウィスキー製造の技術を習得のため、日本の酒造メーカーから派遣された竹鶴は、スコットランドの蒸溜所で学び、ウィスキー蒸留の技術を持ち帰った。同時に彼は現地で結婚したスコットランドの娘を連れて戻ってきた。当時としては全く考えられなかった国際結婚の夫婦が幾多の困難を克服し、ウィスキー作りを成功させる物語、実在の人物で、それも大東亜戦争の前後を挟んでの物語であるため、骨格のはっきりした、説得力のあるドラマに仕上がっていた。
 竹鶴は現在のサントリーの前身である寿屋に入社し、山崎蒸溜所の所長としてサントリーウィスキーを誕生させたが、自分の理想を求めて、スコットランドに似た自然を持つ北海道余市に、自らの蒸溜所を設立し、追い求めた理想のフレーバー、ニッカウィスキーを実現させる物語である。
 ドラマであるから、当然出てくる固有名詞は微妙に変えてあるが、わき役として作り出された人たちは別として、誰が誰、会社名はどこ、ということは容易に類推することが可能で、ほんとにそうだったのかと想像しながら見るのも楽しかった。
 見ながら思ったのだが、今や世界の5大ウィスキー産地(イギリス・アイルランド・アメリカ・カナダ)のひとつとして、ジャパンが輝いており、今年のワールド・ウィスキー・アワードにおいて世界最高賞を獲得したのもニッカウィスキーの「竹鶴17年ピュア・モルト」であった。2年連続の受賞であり、サントリーウィスキーも複数回受賞しており、日本は世界でも優れたウィスキー産地だと認識されていると言えよう。また、放映途中でのニュースだったこともあって、ニッカウィスキーは品不足になるほどのブームとなった。余談ではあるが、ふだんウィスキーを飲まない私も、なんとなくスーパーでニッカウィスキーを買うことになってしまった。そんなに高価なものではなかったけれど。
 他国で作られ、それを導入したわが国が、発明した国の品質を上回るものに仕上げたという例はほかにも数多いが、これは品質をとことん追求し、究極まで高めてゆくことが得意であるという日本人の特質にあると言えるだろう。
 ウィスキーにほれ込んだ竹鶴政孝とサントリーの創業者鳥井信治郎、この2人がジャパニーズウィスキーを創りあげたことは事実で、ジャパニーズウィスキーは、世界で愛されるウィスキーに育って、今や外貨を稼ぐようになっている。ふたりがいなければ、いまでも我が国はウィスキーの輸入国だったことは間違いないだろう。
 両者を比較していえば、いまやサントリーは世界的規模の企業に育ったが、ニッカはアサヒグループの1企業に甘んじている。戦後、うまさではニッカウィスキーだという評判が一般的であったが、経営においてサントリーをしのぐことはできなかったのはなぜか、いろんな要素はあるだろう。リーダーとしてのすぐれた後継者がいたか、経営戦略は適切であったか、それらを実現する社内風土が育っていたか、時代という運もある、それらが重層に重なって今がある。現時点での売上高ではサントリーが上回っているようであるが、ゴーイングコンサーンとしての成否は、今いえることではない。
 正直言って、私にはどちらがうまいかはわからない。「モルト・ウィスキー」だとか「ブレンデッド・ウィスキー」だとか種類も多くなって、それぞれにネーミングされて、グレードによって値段も違う。私はこれまでの経験から、酒のうまいまずいはT・P・Oで決まると思っているので、そのことには触れない。
 ただ、一般的にはサントリーのほうに、なんとなく親しみを感じるのではなかろうか。なぜか、それは広告宣伝のうまさと多さ、それによって、われわれはウィスキーの飲み方を教わった。昭和30年代、サントリーが展開した宣伝活動は、戦後の発展過程にある我が国に、一つの文化を創りあげたと言える。「トリス・バー」は盛り場にあふれ、「ハイボール」「和食にもウィスキー」「ボトル・キープ」など、飲むスタイルや、「トリスを飲んでハワイへ行こう」「すこし愛して、ながーく愛して」といったキャッチコピーのうまさ、イラスト「アンクル・トリス」などの、今でいう「ゆるキャラ」の登場、それやこれやで一気にウィスキーは身近なアルコール商品になっていった。
 一方ニッカはひたすら品質を追いかけるのが使命だというように、広告にしてもネーミングにしても「ニッカ」や「竹鶴」に拘り続けた。ニッカにとってはウィスキーがすべてであった。たまたま縁あって余市、宮城峡の蒸溜所を見学する機会に恵まれたが、ウィスキーにかけるこの会社の姿勢を実感した。品質重視か販売重視かということは、これはもうビジネスモデルの選択の話であって、部外者がごちゃごちゃ言う話ではないが、嗜好品の場合、「どう利用するか」という情報は、あってほしい情報でもある。しかしいずれにしても、両社が切磋琢磨し、ほとんど我が国のウィスキー市場を2分することになったことも事実だ。今回の朝ドラはニッカウィスキーにとっては、まさに神風のような広告効果を生んだと言える。
 その他のウィスキー市場は、キリンが作ったウィスキーはほとんど問題にされず、オーシャンのように姿を消したブランドもあり、いくつかの地ウィスキーもあるにはあるが、ほとんど店頭で見ることはない。「ジョニ黒」に代表されるスコッチも名前ほどには売れていない。
 ものを作る、それを売って儲ける、そしてさらに良いものを作る、というサイクルがうまく回っていると商品は大きく育つ。だが環境は常に変化している、それを読み違えると、社会から捨てられてしまうことになる。人口構造の変化、生活の仕方、好みの変化など、単なる商品の良否だけでなく、環境に適合しなくなると商品そのものが不要とされてしまうことになる。アルコール市場に影響を与えるものには、政治的に決められる酒税法という別の要素もある。
 かつて圧倒的シェァを誇っていた日本酒は今や7%台と、焼酎にも抜かれ、ワインや第三のビールなどに取って代わられつつある。また、ウィスキーの市場規模も、話題にはなっても、国内消費量の1%台にすぎず、寡占状態にある2社にとっての課題は、競争相手に勝つことにこだわるより、むしろトータルとしてのウィスキー市場の拡大であり、相手は世界であるともいえる。「マッサン」がヒットしたからといって一時的なブームに終わらせてはならない。今後、これらメーカーは、ウィスキーを含めた総合飲料メーカーとして生き残りをかけた戦いを強いられるだろう。
 後半くどくどと書いたが、この稿で言いたかったのは、マッサンという人物によってウィスキーという、わが国の食文化にそぐわなかったアルコール飲料が、戦後この地に根付いて、それも世界の名品になっていることの不思議さに思いをいたした次第である。竹鶴や鳥井、それを継いだ人々たち、これら先人の強い意志と努力があって今日の時代が作られた。願わくは、これらの会社がこれからもますますよいものを世界に送り出し、私達の生活をより楽しいものにしてほしいのである。
 ともかく、半年楽しませてもらったドラマ「マッサン」にエールを贈る。

越前の国旅行記

 平成27年5月26日から28日まで、阪急交通社の「歴史ロマンと絶景・秘境 越前の国 福井県じっくり大周遊3日間」という長い名前のツアーに妻と参加しました。
 日記風の旅行記は手賀沼通信ブログの6月に3回に分けて書いております。

1.助けられたり助けたりのツアー
 今回のツアーはいろいろ考えさせられることが多いツアーでした。
 私たちが参加することで、交通機関や観光地や観光施設を援助しているのではないかということと、逆に利用することで、安く、面白い旅ができるということです。
送られてきたツアー案内のチラシには北陸新幹線の写真が大きく出ていました。
 ところが北陸新幹線に乗ったのは帰りだけ、往路は上越新幹線で新潟県の長岡駅まで乗車、長岡からはバスで福井県の三国港まで行くという行程になっていました。途中、富山県、石川県は通るだけ、サービスアリアには立ち寄りましたが、観光はありませんでした。
 直接北陸新幹線で金沢まで行き、金沢から三国港へ向かえば、上野駅7時6分という朝早い上越新幹線に乗る必要はなかったのです。9時台の北陸新幹線で初日の観光には十分間に合いました。
 なぜこんな不可解な行程にしたのか、勝手に推測してみました。
 3日間乗ったバスは小千谷観光バスでした。社内の装備が不ぞろいのバスでした。
 上越新幹線を利用することにより、北陸新幹線開通で乗客の減った上越新幹線と小千谷観光バスを安く利用できるとともに両社の営業を助けることになったのではないでしょうか。
 それにしても往路で北陸新幹線を利用しないのは納得できないことでした。

 二つ目は東尋坊観光のあと、宿のある勝山市に行くのに、えちぜん鉄道に20分ほど乗ったことです。えちぜん鉄道は車窓からの景色が特に良いというわけではなく、田んぼや畑の中を走る2両編成のローカル電車です。荷物は小千谷観光バスに載せたままなので鉄道に乗る必然性はありません。私たちの団体が途中で下車すると、残った乗客は数名でした。
 ローカル鉄道は経営が厳しいと聞いています。えちぜん鉄道を守る協力をしたのだと思います。

 三つ目は池田町でかずら橋を渡ったことです。
 かずら橋は徳島県三好市の祖谷のかずら橋が有名です。バスガイドの説明によると、池田町のかずら橋は、観光の目玉として、祖谷のかずら橋をお手本に作られたとのことでした。
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 池田町には祖谷に似た足羽川渓谷があります。かずら橋もよく似ていました。池田町の橋のほうが、やや橋の幅が広く、橋げたの隙間がやや狭いという違いでした。
 ただ大きく違うのが渡る人の数です。
 2年前に祖谷に行ったときは、阿波踊りと重なったため大混雑。橋まで行くにも大分待たされ、橋の上もぎゅうぎゅうづめでした。池田町は私たちのグループ以外ほとんど人影がありませんでした。
 団体料金1人240円、少ないですが維持費の一部になったことでしょう。

 四つ目は宿泊したホテルです。
 「東急ハーベストクラブ スキージャム勝山」がホテルの名前です。ここは会員制のリゾートホテルで、すぐ裏に立派なスキー場があります。おそらく冬場は賑わうと思いますが、今のシーズン、平日は利用者が少なくなっているのではないかと思います。
 旅行業者が会員制のホテルを使うシステムがどうなっているのかはわかりませんが、近くの有名温泉の旅館を使うよりは安いのではないでしょうか。食事のときに、浴衣、スリッパが使えない不便さはありましたが、部屋も食事も温泉も満足でした。
 ホテル、観光業者、利用者とも三方得となっている例と言えるでしょう。

2.海から見る東尋坊
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 東尋坊は2度目です。1994年11月に行ったときは上の方から東尋坊に入り見物しました。
 今回は三国港で貸し切りの遊覧船に乗り、海の方から東尋坊に上がりました。
 当日は快晴、風弱く海も穏やかですばらしい眺めを楽しむことができました。断崖のそばまで入るため迫力ある岩の柱状節理を目の前で見られました。
 遊覧船は東尋坊の沖合にある雄島の先まで行き、引き返しました。約30分の船旅でした。陸から見る景色と海から見る景色が違うことがよくわかりました。

3.初めての座禅体験
 永平寺は3度目ですが、今回初めて坐禅体験をすることができました。
 永平寺は禅宗曹洞宗の大本山で約770年前に道元禅師によって開かれた坐禅修業の道場です。境内は三方を山に囲まれた深山幽谷の地に大小70余りの建物が並んでいます。
 広い僧堂で雲水の指示で男女別に一列に並び、座蒲の上に座り、結跏趺坐の形で足を組みます。私は足が太く短いので胡坐をかくしかありませんでした。
 手は法界定印といわれる掌を上にして両手の親指と人差し指で卵のような形を作ります。あごを引き、口を結び、肩の力を抜いて、背筋を伸ばします。目は半開きにして1メートルほど先に視線を落とします。呼吸は鼻呼吸です。私は姿勢が崩れたため、真っ先に警策(平たい長い棒)で肩をバシッと撃たれました。時間の関係で無心の境地になる前に終わってしまいました。

4.歴史をたどる旅
 今回のツアーでは永平寺以外に4か所の歴史にかかわりのある場所を訪れました。
・一乗谷朝倉氏遺跡
・越前大野城
・越前丸岡城
・平泉寺白山神社
 一乗谷朝倉氏遺跡は1471年に朝倉孝景が一乗谷に居城を定め、朝倉義景が織田信長によって滅ぼされるまで、5代103年にわたって越前に華麗な文化の華を咲かせた夢の跡です。
 発掘された建物や石垣、道路を使って街並みが復元されていました。室町時代の着物を着た現地の人が出迎えてくれました。
 丸岡城は現存する12の木造の天守閣のある城の1つです。小さな城ですが、12のうちのもっとも古いものと言われています。城内の急こう配の階段はロープを使って上り下りをしました。
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