今月は100年目を迎えた高校野球と8月中旬に大変貴重でアンラッキーな経験をした旅行についてまとめました。

100年目を迎えた全国高校野球選手権大会(夏の甲子園)

1.プロ野球より古い高校野球の歴史

全国高校野球選手権大会は今年で100年目を迎えました。
 今年の大会には全国から3906校が参加しました。そのうち49校が甲子園に出場しました。ベスト4は例年と異なり西の学校は1つも残らず、すべて箱根より東でした。関東の早稲田実業、関東一高、東海大相模と東北の仙台育英でした。
 決勝戦は仙台育英と東海大相模の対戦となり、みごと東海大相模が優勝したのはご存じのとおりです。
 東海大相模は45年ぶり2度目の優勝です。1回目の優勝監督は巨人の原監督のお父さん、原貢監督でした。
 準優勝の仙台育英は26年ぶりの決勝進出でしたが、またも優勝を逃し、東北地方に初めての優勝旗を持ち帰ることはできませんでした。

 第1回大会は、1915年(大正4年)に全国中等学校野球大会が豊中球場で行われました。プロ野球の誕生が1936年ですから、高校野球はそれより21年も古いのです。
 第1回大会の参加校は全国で73校、豊中球場には10校が出場しました。優勝したのは京都二中でした。
 今年の大会には京都二中が鳥羽高校と名前を変えて京都代表で出てきました。鳥羽高校の梅谷主将が選手宣誓を行い100周年の大会に花を添えました。
 1917年の第3回大会からは鳴尾球場に変更され、1924年の第10回大会から甲子園球場になりました。
 100年前に始まった大会は順調なら今年は101回大会となるはずですが、実際は97回大会でした。理由は1942年から1945年まで太平洋戦争のため中止となったからです。
 それ以外にも、1918年の第4回大会は米騒動で、1941年の第27回大会は日中戦争のため、本大会が中止となっています。したがって全国から集まる本大会は6回抜けたことになります。
 夏の甲子園大会が今のように東京と北海道が2校、他の府県が1校の代表となったのは、1978年の第60回大会からです。それまでは記念大会を除くと、県予選を勝ち抜いた後、地区大会で勝って初めて甲子園に出られるということになっていました。

2.手賀沼通信第42号に書いた高校野球
 2001年9月の手賀沼通信第42号で一度高校野球を取り上げています。
 「高校野球の歴史と興味深いデータ」というタイトルで4ページにわたってまとめました。その一部をここで再度ご紹介します。

興味深いデータのいろいろ(2001年春現在)
 42号で取り上げたデータのうちから通算の勝率と高校別の勝利数を選んでみました。
 高校野球というとお国自慢につながります。そのお国自慢から始めましょう。
 まず県別の通算の勝率から見てみましょう。
春夏通算
1位高知県愛媛県高知県
2位徳島県大阪府愛媛県
3位愛知県広島県神奈川県
次に高校別の勝利数です。
春夏通算
1位中京高中京高中京高
2位東邦高松山商PL学園
3位県岐阜商平安高平安高
(中京高は現在は中京大中京、平安高は龍谷大平安と呼ばれています)
 なお上の順位が2015年夏現在でどう変わったかは後程お知らせします。

思い出に残る名勝負・名監督・名選手
 42号からタイトルだけを抜書きしてみました。

私が選んだ思い出に残る名勝負・名監督・名選をご紹介しましょう。当然戦後の話になります。独断と偏見で選んでいます。年代順に追っかけてみましょう。

(1)徳島商業の坂東投手と魚津高校の村椿投手の0−0の投げ合いで延長18回引き分け再試合(1958年夏準々決勝)
(2)報徳学園が倉敷工業に奇跡の大逆転(1961年夏1回戦)
(3)決勝戦で松山商業の井上投手と三沢高校の太田投手の0−0の投げ合いで延長18回引き分け再試合(1969年夏決勝戦)
(4)作新学院の怪物・江川卓
  甲子園と栃木県予選などの公式戦に44試合登板、31試合完投、ノーヒットノーラン7回、完全試合2回の成績を残しています。
(5)甲子園史上最高の試合と言われる箕島高校対星陵高校。延長18回箕島4−3のサヨナラ勝ち(1979年夏3回戦)
(6)1982年夏1983年春連覇の池田高校の蔦監督
  1番から9番までがグリップ一杯でフルスイングする強力打線で高校野球に革命をもたらしました。
(7)桑田・清原のPL学園 5回連続の準決勝以上進出(1983年夏から1985年夏までの成績は優勝、準優勝、準優勝、ベスト4、優勝)
(8)奇跡の大遠投が松山商に優勝をもたらす(1996年夏決勝戦)
(9)平成10年 横浜高校は松坂投手の活躍で春夏連覇(1998年春夏)
  夏の決勝戦では京都成章高校をノーヒットノーランに抑えました。
(10)平成11年春、沖縄尚学が沖縄勢として初優勝(1999年春)

3.2001年以降の高校野球
 手賀沼通信42号を書いてから約14年がたちました。その後の高校野球の地図はかなり変わりました。県や地方によっての強弱の差がそれほど鮮明に出るということがなくなり、全国の力が平均化しています。
 したがって通算の勝率と高校別の勝利数にも変化が出てきました。特に県別の通算の勝率はかなり県が入れ替わっています。

まず県別の通算の勝率です。(2015夏現在)
春夏通算
1位高知県大阪府神奈川県
2位愛知県愛媛県大阪府
3位岐阜県神奈川県高知県
神奈川県の台頭と四国勢の衰退が顕著です。

 次に高校別の勝利数です。(2015夏現在)
春夏通算
1位中京高中京高中京高
2位東邦高松山商PL学園
3位PL学園平安高平安高
 春の3位が県岐阜商からPL学園に変わっただけで100年の歴史が積みあがっています。

思い出に残る名勝負・名監督・名選手
 2001年夏以降版です。前回と同じ私の独断と偏見で選んでいます。

(1)2004年春、済美高校が初出場初優勝。上甲監督は1988年春にも宇和島東を率いて初出場初優勝。
 2014年亡くなった上甲正典監督は創部2年目の済美高校を2004年春初出場で初優勝させました。上甲監督は試合中の笑顔が特徴でした。
 済美高校は私の高校時代はふるさと松山の私立の女子高、それが甲子園に出てきて優勝したのは驚きでした。また済美高校の校歌の歌詞に「『やればできるは』は魔法の合言葉」がありましたが、こんな校歌もあるのかとこれも驚きでした。
 済美高校はその後も夏と春の準優勝が1度ずつあります。

(2)駒大苫小牧高校の2004年、2005年夏の大会の2連覇
 駒大苫小牧は2004年に夏の大会で優勝し、北海道では春夏を通じて初の優勝旗をもたらしました。
また夏の大会2連覇は中学が高校に変わってからは初の連覇となりました。戦後でも小倉中学、小倉高校の連覇に続く57年ぶり2度目の連覇でした。

(3)早稲田実業斉藤投手と駒大苫小牧田中投手の延長引き分け再試合。
 2006年夏の大会の決勝戦は早稲田実業のハンカチ王子こと斉藤祐樹投手と駒大苫小牧のマー君こと田中将大投手が延長15回を投げ合い、1対1のまま引き分けました。松山商業と三沢高校の引き分け再試合は延長18回まででしたが、2000年春の甲子園から延長戦は15回で打ち切ることになっていたのです。
 駒大苫小牧にとっては戦後初の夏の大会3連覇がかかっていました。早稲田実業にとっては夏の大会初優勝がかかっていました。
 私の目には両投手の投げ合いが松山商業の井上投手と三沢高校の太田投手の投げ合いとダブって見えました。
 翌日の再試合は4対3で斉藤投手が投げ勝ちました。最後のバッターが田中マー君だったのが、ドラマを一層盛り上げました。三振でした。

(4)興南高校と大阪桐蔭高校が春夏連覇
 2010年には興南高校が島袋投手を擁して、2012年には大阪桐蔭高校が藤浪投手を擁して春夏連覇を達成しました。
 春夏連覇を達成したのは、作新学院(1962)、中京商業(1966年)、箕島高校(1979年)、PL学園(1887年)、横浜高校(1998年)を合わせて7校です。

参考資料:インターネットより
HP「激闘の記憶と栄光の記録」
Wikipedia「日本の高校野球」
「まるわかり甲子園全記録−20世紀<春&夏の高校野球>完全版」(森岡浩著 新潮社)

北八ヶ岳及び新穂高のロープウェイと乗鞍岳旅行記

 平成27年8月12日と13日、クラブツーリズムの「雲上の世界から見るアルプス絶景アルバム 奥飛騨温泉の佳宿・新穂高温泉『山のホテル』2日間」というツアーに妻と参加しました。
 千葉県松戸市からワンランク上のプレミアムステージのツアーで、「リクライニング可能」「トイレ付」のゆったりシートバスで北八ヶ岳ロープウェイ、新穂高ロープウェイ、乗鞍スカイラインを利用するのが目玉でした。
 参加者は約40名、バスはほぼ満員でした。いつものツアーは高齢者がほどんどを占めているのですが、お盆の時期とあってか若い人の姿が目立ちました。
 日記風の旅行記と写真は8月の手賀沼通信ブログに載せてあります。
 素晴らしい写真が撮れなかったので手賀沼通信には写真は省略します。

1.お盆の渋滞に巻き込まれる
 ツアーを決めたのは妻ですが、日程を決めたのは私でした。
 妻は結婚する前に生命保険会社のハイキング部で西穂高岳に登っています。そのときは新穂高ロープウェイはまだ設置されておらず、上高地方面から登りました。以前登った西穂高岳を岐阜県側の新穂高ロープウェイから見てみたいとこのツアーを選びました。
 妻は9月の日にちを選んだのですが、9月は台風に遭う可能性があるし、高地は9月は寒いので8月のほうがよいと決めたのは私でした。8月の松戸発は12日しかありませんでした。そのときはお盆の帰省客で大渋滞になるということはすっかり頭から抜けていました。
 お盆のころに長距離の車に乗ったことがなく、したがって渋滞の体験もなく、何よりもこの日が渋滞のピークという認識がなかったのです。すべて私の責任です。
 渋滞は外環道から関越自動車道に乗り、しばらく走ったところから始まりました。
 最初の観光地北八ヶ岳のロープウェイは地図で見ると関越道と上信越道を経由して行くのと、関越道と圏央道と中央道を経由して行くのがちょうど同じくらいの場所にあります。渋滞の様子を見て空いている方を選ぶのかと思っていたのですが、昼食と翌日の夕食のお弁当を積み込むパーキングエリアが決まっていたので、そんな自由はなかったようです。
 圏央道に入るとすいすい走れましたが、本格的な渋滞は圏央道から中央道に入るジャンクションで発生していました。渋滞している中央道に割り込む形になっている合流点です。歩くようなスピードで約1時間進むことになりました。中央道は八王子の合流地点からしばらく渋滞が続きましたが、そのあとは普通に走れました。
 北八ヶ岳のロープウェイ乗り場には約2時間遅れで到着しました。
 ロープウェイの頂上駅からは、はるか遠くに北アルプスの槍ヶ岳がかすんで見えました。今日の宿は槍ヶ岳の向こう側の新穂高温泉です。そこまではほとんど一般道とカーブの多い山道を経て、北アルプス直下の長いトンネルをくぐって行く行程です。
 宿に着いたのは7時半ころでした。やはり2時間遅れでした。温泉より食事が先でした。

2.運に見放された北アルプスの絶景見物
 初日は晴れのち薄曇りで、北八ヶ岳ロープウェイの頂上駅からの景色は、青空こそありませんでしたがそれなりに楽しむことができました。
 2日目は朝から雨で、帰りの北関東自動車道の途中まで降り続きました。
 午前中新穂高ロープウェイに乗りました。新穂高ロープウェイは乗車時間4分と7分の2つのロープウェイを乗り継いで、標高2200メートルの西穂高口まで、約1000メートルの高低差を昇ります。第2ロープウェイは日本唯一の2階建てゴンドラです。
 駅の屋上の展望台からは、穂高連峰や槍ヶ岳、笠ヶ岳、乗鞍岳などの北アルプスの大パノラマが見えることになっていました。
 ところが雨と霧のため何も見えませんでした。
 北穂高、奥穂高、前穂高、槍ヶ岳は20代から30代にかけて登ったことがあり、近くで見ることを楽しみにしていました。妻も西穂高に再会することを楽しみにしていました。
 しかし天気には勝てません。何も見えない展望台いても仕方がないので、第2ロープウェイを降りた鍋平高原の新穂高ビジターセンターを見学しました。
 午後からは乗鞍スカイラインを通って乗鞍岳の畳平に行きました。ところが雨が一層強くなり、何も見えません。天気がよければアルプスの絶景とお花畑が楽しめるはずでしたが、バスターミナルの建物の中で過ごすしかありませんでした。
 北アルプスの反対側の上高地には5回来ていますが、雨に会ったことはありません。今回は運が悪かったとしか言えません。東京では猛暑日の連続記録が出るほど晴天続きで暑かった今年の夏が息切れしたのかもしれません。

3.素晴らしかったバスドライバー
 今回のツアーで大奮闘したのがバスのドライバーの笠原良久さんと添乗員の庄司まゆみさんでした。特にドライバーの忍耐と努力には感謝感謝です。
 往路は松戸を出て、外環道、関越道、圏央道、中央道を経由し、諏訪南インタ―で降りて、ビーナスラインやメルヘン街道を通って北八ヶ岳のロープウェイ駅に着きました。
 そこからは同じ道を引き返し、1つ先の諏訪インターから中央道、長野道を松本で降り、野麦街道を延々と走りました。上高地との分岐点で高山方面に向かい、阿房トンネルを抜けて、新穂高温泉にたどり着きました。予定より2時間遅れでしたが、決められたところではしっかり休憩時間をとってくれました。
 復路はまず新穂高温泉からロープウェイの駅に行きました。そこから平湯を経由して乗鞍スカイラインを登って畳平に到着。畳平からは同じ道を下り、阿房トンネルから松本までは野麦街道です。松本インターから長野道を長野方面に走り、上信越道を藤岡ジャンクションまで行きました。帰りは渋滞はありませんでしたがずっと雨中の走行でした。上信越道で関越道の上りの渋滞情報が入ったため、ドライバーの判断で関越道を下りに走り、高崎ジャンクションで北関東道に入って、東北道に抜けて外環道に戻りました。帰りは約30分の遅れで済みました。
 走った距離は2日とも約380キロでした。渋滞や雨の中、ドライバーの安全運転と丁寧な応対は絶景から見放された私たちの心に深い感銘を与えてくれました。

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