今月は国民栄誉賞に輝いた作曲家の吉田正についてまとめました。
 弟から吉田メロディについてのエッセイをもらいました。
 3年半ほど前に吉田正音楽記念館を訪れたことがあります。その時の感想や写真と吉田正音楽記念館のホームページからの情報を文章にいたしました。
 私の若いころ、12月31日に放送される紅白歌合戦では吉田正作曲の歌であふれていました。今では紅白歌合戦はあまり見ませんが、当時は家にいる限りは見ていました。
 今でもカラオケではよく吉田正作曲の歌を歌います。

特別寄稿
吉田メロデイの時代
       新田自然


 終戦から間もないころのこと、四国の瀬戸内寄りの田舎町、小学校は単線の伊予鉄道を渡ったところにあった。踏切の手前に「宮岡」という麹屋があって、店の前を通ると麹の匂いがした。その店には、放し飼いの犬が寝ころんでいて、薄紫の耳の垂れた雑種は、騒ぎながら通っていく子供たちを無関心に眺めていた。
 「♪…友よつらカロ、せつなカロ」
 この犬がいると子供たちは、大きな声を出して歌いすぎていった。犬の名前は「カロ」といった。子供たちはそれが吉田正の作品だとは知らなかったが、終戦直後、国中で唄われていた歌ということは知っていた。「異国の丘」というこの歌は復員兵によって、NHKの「のど自慢」で披露され、広められていった。帰国したばかりの兵は言った、この歌はシベリアで歌われていた歌だと。
 そのころは、いまと違って、子供の歌、大人の歌、という区別はなく、みんなで同じ歌を唄っていた。
 その子供たちのなかに私もいた。

 吉田正は昭和17年満州国黒江省、陸軍水戸第二連隊に入隊、昭和19年、急性盲腸炎のため入院、隊はペリリュー島の戦いに参戦するため転属となったが、それには参加できず、ペリリュー島に渡った隊はほとんど全滅となった。彼はそんな運命のいたずらで生き残って終戦、シベリアに送られた。満州で作った「大興安嶺突破演習の歌」がシベリアで別の詞をつけられて唄われ、吉田より先に帰国したのだった。昭和23年に帰国した吉田はそのことを知らなかった。「異国の丘」は正式に吉田正の作曲と認められ、レコード化され映画にもなった。

 今日も暮れゆく異国の丘に 友よ辛かろ切なかろ
 我慢だ待ってろ 嵐が過ぎりゃ
 帰る日もくる 春がくる (増田幸治詞、佐伯孝夫補作)

 昭和32年、私は大学受験に失敗して、東京の予備校に通うことになった。秋だったと思うが、小平の下宿のおばさんが「ちょっとぐらい息抜きしましょ」と、下宿人3人(2人は大学生)を連れ、有楽町のニュートーキョーに連れて行ってくれた。下宿のおばさんは、いわゆる「所帯じみた下宿のおばさん」ではなく、すごい経歴を持った人で、われわれは下宿人としてではなく、まあいわば女世帯にとっての用心棒みたいな関係で住まわせたのであった。私達は大変お世話になり、以来親戚のようになっていった。この人についてはまた稿を改めるが、おばさんは時々こうやってご馳走してくれるのだ。
 当時の有楽町は堀が埋め立てられたり、新しいビルが建ったりと、ものすごい変容を遂げようとしていた。東京オリンピックが決定され、東京全体がものすごく変わろうとしていた。有楽町駅前には読売会館というビルが建てられ、東京そごうが開店された。
 「あなたと私の合言葉、有楽町で逢いましょう」
 フランク永井という低音の歌手が唄った歌は、デパートの開店のキャッチコピーとして、そごうの広告には必ずこのロゴが入っていた。吉田正作曲のこの歌はビッグヒットとなった。私にとっての東京はこの歌から始まったと言っていい。
 ところが、下宿のおばさんに連れて行ってもらったニュートーキョーで、なんと運の悪いことに、松山の高校の担任の先生に出会ってしまったのだ。大学生だった兄貴と白方さんという先輩も松山南校の卒業生で、先生とはお互いよく知っている関係にあった。柳原という漢文の先生は、修学旅行の引率で東京に来たらしく、息抜きに1人でビールを飲みに来たのであった。先生はにこっと笑って「おお元気でやっとるか」と言っただけだった。未成年の浪人生まで連れてビアホールに来たことを、大変恐縮して、くどくどと言い訳をしていた下宿のおばさんの顔が忘れられない。先生も引率を抜け出て、ビールを飲みに来たので、ばつの悪そうな表情をしていた。あれから50年にもなるが、そのニュートーキョーは健在で、いまでもちょくちょく行く。

  あなたを待てば雨が降る 濡れてこぬかと気にかかる
  ああ ビルのほとりのティールーム
  雨もいとしや 唄ってる あまいブルース
  あなたとわたしの合言葉 「有楽町で逢いましょう」(佐伯孝夫詞)

 ひと昔の映画では俳優がよく歌を唄った。石原裕次郎や小林旭、加山雄三など男性が多いが、女性の場合はそれほど多くない、少し古いが高峰三枝子くらいか。それは美空ひばりという不世出の女性歌手が映画スターとなってしまったからかもしれない。小林旭や加山雄三はいまや歌手ではあっても俳優ではなくなってしまった。その点からすると吉永小百合は女優ではあっても歌手ではない(と私は思っている)。その吉永小百合が吉田メロディを唄ってヒットさせたのは、奇跡といってもいい。「寒い朝」「いつでも夢を」など、プロ歌手というほどの「声」を持たない彼女が唄ったことが、それはそれで大変なことであるが、それをヒットさせたのは吉田メロディのお蔭だと思うのである。彼女の声は美空ひばりや江利チエミと違って、生野菜のようなみずみずしさがあった。その後、彼女はある時をもって、きっぱりと唄わなくなったのは素晴らしい決断だった。(と私は思う)

  北風吹きぬく寒い朝も 心ひとつで暖かくなる
  清らかに咲いた可憐な花を みどりの髪にかざして、ああ
  北風の中にきこうよ春を 北風の中にきこうよ春を(佐伯孝夫詞)

 吉田メロディはわが国の高度成長期と重なり、都会志向もあって、上ばかり向いている日本の、あの時代を象徴していた。だから明るく、洒脱で、音域の狭い歌いやすさを持っていた。「ムード歌謡」という、演歌でもなく、ジャズっぽくもなく、わが国の言葉で唄う独特のポップミュージックが生まれた。門下生として、三浦洸一、鶴田浩二、フランク永井、和田弘とマヒナスターズ、松尾和子などが育っていった。
 ここで吉田メロディなるものを並べてみよう。「落ち葉しぐれ(三浦洸一)」「街のサンドイッチマン(鶴田浩二)」「傷だらけの人生(同)」「哀愁の街に霧が降る(山田真二)」「東京の人(三浦洸一)」「夜霧の第二国道(フランク永井)」「西銀座駅前(同)」「東京ナイトクラブ(フランク永井・松尾和子)」「泣かないで(和田弘とマヒナスターズ)」「誰よりも君を愛す(同・松尾和子)」「潮来笠(橋幸夫)」「いつでも夢を(同・吉永小百合)」「寒い朝(吉永・マヒナ)」「美しい十代(三田明)」「霧の中の少女(久保浩)」「お前に(フランク)」。まだほかにもあるが…。
 吉田正は平成10年6月、肺炎のため亡くなった。77歳であった。生涯作品は2400曲を超えるといわれる。

 歌は時代を象徴していると、よく言われるが、吉田メロディが戦後から昭和の時代をよく表していると思えるのだ。その後の歌謡史がどう変遷していったか、私には語る資格はないが、歌が年代別に細分され、童謡、唱歌、演歌、若者向けのポップス、外国語の歌などに分かれていったと言えるのではなかろうか。少なくともみんなで同じ歌を歌うことはなくなってしまった。だから年末恒例のNHK「紅白歌合戦」のミスマッチはどうだ、全く分からない若者の唄う歌と、演歌が同じ番組で歌われるのである。
 先日鎌倉芸術館に「フォレスタ」という混声合唱グループのコンサートに行ってきた。「BS日本・こころの歌」という人気番組のコンサートだ。満員の館内はほぼ全員が中高年で占められている。愛唱歌、あの時代にはやった歌、などが次々に唄われ、ともに合唱するなど、会場内は熱気にあふれた。吉田メロディも含まれていた。もちろん現代の若者の唄などはなく、歌が年代別に分かれてしまったことを象徴していた。

 もう吉田メロディの時代は来ないだろう。いまという時代は、明らかにあの時代とは比べ物にならないくらい不安に満ちている。改めて思うに、吉田メロディの時代は、わが国にとって奇跡のように幸せな時代だった。国中が破壊されたとはいえ、平和が訪れ、自由にものが言え、自由に恋愛する時代となった。貧しくとも希望がもて、そして確実に豊かになっていった。だが世界は必ずしもそうではなかった。朝鮮戦争、東西冷戦、ベトナム戦争、ドイツは分裂したままだったし、ソ連も中国も戦勝したとはいえ国内は不安定だった。それらのなかで(そのお蔭もあって)日本だけが豊かさや自由を謳歌できた時代だった。
 明日への希望を抱くことのできる時代をどうやって作っていくか、それはわたし達に課せられた課題でもある。吉田メロディの時代よ、フォーエバー。

吉田正音楽記念館に行く

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 2012年4月11日、茨城県日立市にある「吉田正音楽記念館」を尋ねました。柏市の高齢者の会「あけぼの会」の日帰りバス旅行で立ち寄ったのです。
 吉田正氏の音楽活動の功績を記念して建てられた5階建ての記念館は、日立市のかねみ公園の中央にあり、入場料は無料、年中無休です。
 1階の入り口を入ったところに、吉田正氏の胸像と記念写真用の等身大の人形がありました。おそらく作曲家として脂の乗り切ったころの写真をもとに作られたものでしょう。堂々とした立派な人形でした。
 吉田正音楽記念館のホームページから、吉田氏の略歴を転記してみましょう。

・大正10年1月20日 茨城県多賀郡高鈴村助川(現日立市鹿島町)に生まれる(生家はクリーニング店)
・昭和10年3月 助川尋常高等小学校卒業
・昭和10年4月 日立工業専修学校機械科入学
・昭和14年3月 日立工業専修学校研究科卒業
・昭和14年4月 増成動力工業(株)入社(東京都)
・昭和17年1月 水戸陸軍歩兵第2連隊(満州国河省嫩江)に入隊
・昭和20年10月 ソ連シベリア地区に抑留
・昭和23年8月 舞鶴港に復員
・昭和24年4月 日本ビクター(株)専属作曲家として入社
・昭和26年5月 夫人喜代子さんと結婚
・昭和35年12月 日本レコード大賞受賞(誰よりも君を愛す)
・昭和37年12月 日本レコード大賞受賞(いつでも夢を)
・昭和43年12月 日本レコード大賞特別賞受賞
・昭和44年5月 芸術選奨文部大臣賞受賞
・昭和57年5月 (社)日本作曲家協会理事長に就任
・昭和57年11月 紫綬褒章受章
・平成元年10月 (社)日本音楽著作権会長に就任
・平成2年12月 日本レコード大賞功労賞受賞
・平成4年4月 勲三等旭日中綬章受賞
・平成5年5月 日本作曲家協会会長に就任
・平成9年12月 日本作曲家協会名誉会長に就任
・平成9年12月 (社)日本著作権協会功労者賞受賞
・平成10年6月10日 永眠(享年77歳)
・従四位に叙せられる
・平成10年7月 国民栄誉賞受賞
・平成10年12月 日立市名誉市民として顕彰



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 2階には690枚のレコードジャケットが飾られていました。吉田メロディのあゆみがうかがえました。
 2階ではまた作曲家デビュー後、都会調歌謡曲を開拓した、1950年代の足跡と作品が紹介されていました。

 3階では多くのヒット曲を世に送り出し、昭和歌謡の黄金時代を築いた1960年代の足跡と作品を紹介しています。
 また門下生のレッスンに使ったピアノや作曲に使った机などが置かれ、吉田正の居間の雰囲気を再現していました。
 そして、パソコンが置かれ、門下生たちが語るエピソードや写真、ヒット曲などを自由に視聴できるコーナーもありました。

 4階では音楽界の発展に貢献するととともに、吉田メロディーを不動のものとした1970年以降の足跡と作品を紹介しています。
 吉田正の作曲コーナーでは、パソコンを使って作曲を体験できるようになっていました。そして作曲した曲の楽譜を印刷したり、CDを作ったりできます。

 5階には見晴らしの良い展望カフェがあります。はるか太平洋も望めます


先月号の一部に誤りがありました。お詫びして訂正いたします。

2ページの「桃の栄養と効用」の部分で
  誤り      正 
ナイシアン → ナイアシン

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