手賀沼通信第215号の送付メールで「私の戦争(戦後)体験」の原稿を募集させていただきましたところ、多くの方がご寄稿くださいました。ありがとうございました。
 何号かに分けて届いた順番に載せさせていただきます。お送りくださった原稿は文字の大きさや体裁を合わせる以外はできるだけそのまま載せたつもりです。ただ、長さの異なる文章を4ページに収めるため、編集の都合で多少順番が前後することはお許しください。
 貴重な体験記ばかりで、ぜひ次代の若者たちに残したいものと感じました。

私の昭和(私の半生記)       家田和利 88歳

 私は純粋な国粋主義者、軍国主義者ではなく多少、現実主義者、自由主義者かも知れない。

 私の生まれた昭和初期(昭和3年・辰年、血液型0型)は大正デモクラシー、関東大震災後の大不況時代。浅草でエノケンが歌う「今日もコロッケ、明日もコロッケ、これじゃ年がら年中コロッケ」で、そのせいか、私もごく普通のコロッケで育ち、今でも美味しいと食べて居る。
 当時、大森に住んで居た私は親の勧めもあり、昭和16年4月に渋谷区鉢山の東京府立第一商業学校に入学した。一商から東京商科大学予科(現一橋大学)に多数入学し且つ、一商で習った英語・商業・簿記・珠算が役立って直ぐ授業について行けるからである。併し、不幸にしてその年の12月に大東亜戦争(太平洋戦争)が始まって世の中が様変わりし、一億国民は全員、軍国主義にならざるを得ない体制となり、我が一商も学団組織になり、軍国主義に変わって行った。
 とは言い乍らも一商は素晴らしい学校で割合に自由があった。私共は「天下の一商」と自負し、それに恥じない行動を心掛けた。英語が読本・文法・作文と分かれて勉強し、電車内の他校の上級生の英語教科書を肩越しに見て、スラスラと理解出来た。工場動員で実現しなかった4年生では、「かもしか行」登山で著名な中村謙副校長先生の英会話授業もあった位だ。
 軍事教練の配属将校は陸軍少佐、配下の予備役中尉にみっちりしごかれた。3年生では三八式銃を使って匍匐前進・射撃・銃剣術があって、銃の手入れ等で休み時間から次の授業時間に遅れる事も屡々。中国語の葉先生は文句一つ言わずに我慢され、誠に申し訳なかった。
 実戦さながらの訓練は群馬県相馬ケ原、千葉県下志津、習志野練兵場に出掛け、相馬ケ原では空砲薬莢を紛失し、連帯責任と全員で暗くなる迄、探し続けた。夜行軍、40`、50`行軍や丸子多摩川‐二子玉川間5時間長距離走もあり、世田谷の馬事公苑先の東光原農場では隔週午後、博物授業の一環として教諭の指導の下、堆肥作製等、農作業に従事した。玉電の「渋谷⇔用賀・上町」の特別切符もあった位だ。特別氏子の様な存在の明治神宮には何かと言えば全校生徒で隊伍を組んで参拝し、為に現在私も「明治神宮崇敬会」の個人会員となり、毎年昇殿参拝して居る。
 勤労動員される迄の授業は僅か4年3ケ月だったが、貴重な体験をしたと「天下の一商」を誇りに、クラス会「一土会」は続いて居る。
 一方、太平洋を挟んだ日米両国は特に不仲でなく、為に日露戦争当時、露バルチック艦隊の動静を同盟国英国と共に日本に逐一通報して、東郷元帥指揮の日本連合艦隊はバルチック艦隊を待ち受け壊滅させた。更に極東の日本との戦いにロシアが本腰を入れ精強部隊を対日戦闘に参加させるのを察知し、戦力が乏しくなった日本に講和の途を開いて呉れたのは米国だった。
 ハワイその他米国では生活・文化の違いから日本移民の苦労もあったが、西部開拓の中国人の鉄道建設の後、日本移民は商業を中心に各地で根を下ろして居た。私は当時から行った事もない米国に好意を寄せて居た。その後、実際に業務で出張したり、昭和46年から4年間、ロサンゼルス・ニューヨーク勤務の折り、各地を回って私の考えが間違いでないと、確信を持った。
 一商2年生の時に、純粋国粋主義の同級生と取っ組み合いの争いになったのも、この微妙な主義の差であった。にも拘わらず、4年生になると大森の田中航空計器製造工場に勤労動員され、又、同級生は陸士・海兵、陸軍少年航空兵、海軍予科練と志願して征った。私も当時の少年としてじっとして居られなくなったのは、日本は米英相手に勝てなくても、負け方があるだろう。同じ負けるにしても少しでもダメージの少ない負け方はないか模索して居た。
 空襲避難中に焼夷弾破片で脚を骨折し大森駅前の病院に入院中の母を援護する為、警戒警報で工場から約2`半の焼け跡を飛んで行くのに、その時は突然空襲となり、慌てて焼け跡を駆けて行く途中、艦載機に出会った。が、防空壕は入れて貰えず隠れる所とてなく、敵飛行士の横顔が見えた。機銃掃射は一連射のみでニヤニヤとしながら脅した丈で飛び去った事もあった。
 6人姉妹弟の3番目長男の私は母親から現役志願丈はしないでとの願いを知って、予備役なら良かろうと、3月10日東京大空襲後の深川越中島の農林省水産講習所(その後新制東京水産大学、高等商船学校と合併、現東京海洋大学海洋科学部)が商船学校と共に戦時には自動的に陸軍船舶予備生徒任官する事を知って、現役の後ろに居るなら良かろうと折角合格の商大予科を捨て、志願し36人に1人の難関を突破して製造科50人の中に入った。
 午前中は授業、午後は軍事訓練・端艇操練に明け暮れた。3月10日の東京大空襲でドック沿いの木造自治寮は焼失し木造2階建ての講堂をロッカーで仕切り自治寮とした。予備生徒だから全校全寮制で起居を共に、4年生は乗船実習中だが、3年生以下1年生が分散し、私の8号室は3年生1名、2年生2名、1年生4名、計7名だった。
 授業は午前中丈だが、数学、物理、化学等一般科目の他、水産を実習と共に履修し、経済原論は英語版を使った。授業は楽しく、リラックスして勉強した。処が、訓育・生活は2,3年生が指導し、所謂ストームで特に京浜地区の1年生は可愛がられ、ビンタで腫れ上がった。階段・廊下・屋外は凡て速足で、入寮した5月1日には、階段が昇れなくなる迄、痛め付けられた。隔週末、外出許可があったが、腫れた頬を見て肥ったと錯覚した両親は喜んだが、実はストームで腫れて、口内に傷があって、味噌汁が飲めない状態であった。
 端艇訓練では、調子の良い時には越中島から隅田川を遡り、蔵前まで遠漕した事もあった。ドックには毎朝、大空襲で水死した死体が1〜3名入り、都度警察に引き渡した。噂の通り、男はうつ伏せ、女は仰向けで、これは分銅のせいか。
 朝6時起床・掃除、7時点検、8時朝食、8時半授業開始で一日が始まるが、点検時に雑草取りをし、これが朝食の味噌汁の実になった。月島沖で素潜りして貝拾いさせた事もあり、食糧不足は顕著だった。又、十分でないので、左手で食べるようにもさせられた。
 軍事教練の査閲で終戦の一週間前、完全武装で越中島を出発し、永代橋から日本橋、外堀を一周して銀座尾張町で、鎖銃して休憩となったが、流石に人通りは殆どなかった。又、係留された第2代練習船「雲鷹丸」(400d超)の3本マストの昇降、栄誉礼訓練もあった。雲鷹丸は現在は、品川の大学構内の陸上に保存してある。戦局が困難となって、最後の1ヶ月は爆薬抱えて匍匐前進し、敵戦車に肉薄特攻する訓練。下手な動きは下士官兵に「戦死」と叱られ鞭で打たれた。

 8月15日の天皇陛下の玉音放送を聞いたが「堪え難きを堪え、忍び難きを忍び」で、どうも戦争は終わった様だと知って、脱力感が襲って思考力がなくなった。「天皇陛下に申し訳ない」と全員が宮城前に行って、正座し陛下にお詫びして頭を下げた。自治寮に戻ったが、脱力感で何も出来ない状態だった。学校当局も学期終了を告げて全員帰郷した。着服の侭就寝して居たが、今は灯りをつけ、寝間着に着替えて悠々と寝た解放感が嬉しかった。
 9月に入って授業再開となったが、鉄筋の本校舎が進駐軍に接収され、隣の木造の商船学校校舎へ、明治小学校の寮から通学、焼け野原の中を市電の外にぶら下がって登校した。その後神奈川県久里浜の旧海軍通信学校跡のバラック寮に移転し、そこで1年半、合計4年、所外実習も終了し昭和24年3月卒業した。幸い中堅商社に入社し、愈々日本再建の為に頑張ろうと精励恪勤した。最初缶詰部に配属され、缶詰輸出の農林省輸出食品検査所で検査する見本を横浜の倉庫から運ぶ際、交番で闇屋と咎められ、輸出立国で、日本復興の為に外貨稼ぎで頑張って居ると、説得したものだった。検査官の先輩から「18歳の女性のオッパイを知って居るか?」と訊かれ「知りません」(これホント)。開缶された鮭水煮の固さを調べ「この固さが18歳のオッパイだ」「そうですか」としっかり触れたものである。うぶだったな。
 若し、本当に米軍の本土上陸が実現したら、戦車に爆薬抱えての私達の特攻は間違いなく、敵前で殺されて居ただろう。幸いな事に出征した同級生も従兄弟達も、全員本土決戦に備えて内地勤務で、戦死者は居ない。が、戦災死は浅草の祖母、伯母、従妹、亀戸の伯母、従姉等が亡くなった。関東大震災、東京大空襲で家が絶えた親族も居た。
 短期間とは言え、身命を賭して得た「平和」は何としても守り抜かねばならない。戦後70年一度も戦争をして居ないのは日本丈だろう。これは大変な事である。拾った我が命は大事で、他人様の命も大事にと思って居る。今の若い人に我々の心血で築き上げた日本を託さなければならない。若い人も命懸けで「平和」を守り地道に繁栄を続けて欲しいと願って居る。
 恋愛結婚した亡妻や連帯結婚した今の妻に絡まる同級生とのエピソード等、動員中やその後の艶やかな話もなくはないが、現在の私は主宰する25年の高齢者生涯学習の「あけぼの会」や「一土会」に加え、水産の「製51会」、更には柏シルバー大学院OBG「14期会」、隣近所との懇親の「ふじさん会」、にコーラス会、東京を語る会・・・と、友人、近隣との友情を深めて居ます。

私の戦争体験       宮本尊生  77歳

 終戦時は、私は小学一年生で当時妙寺(みょうじ)という処、(和歌山市から東に約50キロ程度?)に住んでいましたが、20年7月の和歌山市大空襲のときは西空が夕焼けのように赤くなっていた事、あるいは有田の東燃が艦砲射撃を受けたとき、地震のように微かに地響きがあり窓ガラスがビリビリ振動したことなどが記憶にあります。
 今一つ、今でもはっきりと覚えていますが軍刀を腰にぶら下げた軍人でしょうが、「俺は中国人を何人斬った」と自慢話をしているのを聞いたことが、子供心に違和感がありました。家に帰ればなんということもない平凡な男だったのでしょうが、ひとたび外に出て軍服を着ればそんなことを喋るわけです。戦争は人を狂喜に駆り立てるのですね。また、狂気にならないと人を斬れないのだろうと想像します。
 あとは、戦後の食糧難で不味い麦の粥を母の母つまり祖母の家で食したことがありますが、これなども鮮明に記憶に残っています。満州から親類が引き揚げ、とりあえず我が家に寄食したのですが、母の気苦労は並大抵のものではなかったろうと、今、しみじみ思い返されます。
 少し遅れて生まれたわけですが、今少し早ければ戦場に赴いたかもしれません。それもこれも人の運命は人智ではどうしようもない定めなのですね。

私の戦後体験       鎌田肇 72歳

 申し訳ありませんが昭和18年生まれの私自身には戦争体験が全くありません。
 新聞記者の父親が名古屋空襲で焼け出された話を聞いたことはありますが、私自身は祖母に連れられて信州に疎開していたのだそうです。
 海軍の軍人だった叔父の乗っていた駆逐艦が撃沈されたけれど、本人は丸一日漂流した後に救助されて九死に一生を得たそうです。
 私の郷里の陸軍松本五十連隊は南洋で全滅したので、同級生のほぼ半分が父親無しだったことを今でも覚えています。

私の戦争体験       長島達明  78歳

 私は昭和20年5月の東京大空襲を経験した者ですので、皆さんと少しは違った体験をしたのではないかと思い、投稿させて頂くことにしました。
 私が東京の渋谷区代々木でこの空襲に遭ったのは、小学校の2年生の頃です。入学が19年ですから、もう世の中が相当混乱していたのでしょう、入学当時の小学校のことは殆ど覚えていません。父が招集されて外地に行っていたので、母親と妹が二人の三人での生活でした。多分、同級生は田舎に疎開してしまっていたのでしょうが、母が「死ぬならもろ共」の考えで、私は東京に残っていました。そんなことで同級生との交流も少なかったので、入学当時の記憶が薄いのかも知れません。
 ですから覚えているのは、薪になる木を拾って来て、小さな手で薪を作って七輪に火を熾し、ご飯を炊いたり、雑炊かなんかの配給を待って炎天下に長い列を作って並んでいたことや、連日の空襲で、サイレンが鳴ると防空壕に入って、頭上を通るB29を見上げていたことくらいです。
 3月の第一回目の大空襲では、東京の中心部がやられたので当方には被害がなく、真っ赤に染まった東の空を見ていたのでしたが、5月にはこちらに回って来ました。最初は防空壕に隠れていましたが、焼夷弾がドンドン落ちてきて危なくなったので、逃げ出すことになりました。防空壕に形ばかりの土を掛け、母は下の妹を背負い、私は左手にお皿か何かの風呂敷包みを持ち、右手で上の妹の手を引いて逃げ出しました。小田急線を渡る踏切のところで振り返って、我が家を見ると、もうスッカリ火が回って焼け落ちるのが見えました。母が、「このことを良く覚えて置くのですのよ」と言う意味のことを言ったのが印象に残っています。後で聞いたら、「大きくなったら、敵を討つのですよ」と言う意味で言ったとのことでした。誰言うとなく、「明治神宮に逃げよう」と言うことになったのでしょう、その夜は明治神宮の馬小屋で夜を明かしました。考えてみると、森の中なんて言うのは、火が回ったら逃げ場のないところです。賢い選択ではなかったと思いますが、これも後になって、母が、「神様が守って下さったのよ」と言っていましたから、当時も拙い選択であったことは気がついていたのでしょう。この当時の母はまだ30代も前半だった筈です。昔の母親は偉かったんだな、と思い返します。
 6月には母方の祖母の出身地である長崎に疎開することになりました。家は勿論、防空壕も完全に焼けてしまって、残っているものは殆どありませんでしたが、防空壕から焼け焦げた衣類や瀬戸物類を掘り出し、これらのボロを抱えて汽車で長崎に向かいました。途中でも空襲に遭って乗ったり降りたりで、三日ほど掛かって長崎に辿り着いたのではないかと思います。
 その後、祖父が大村に家を探して来て、直ぐに大村に移り住みました。このまま長崎に住んでいたら原爆の洗礼を受けていたところです。その意味では憑いていた、と言うことになります。8月の9日、大村からは長崎の方向に、太陽が落ちたのかと思うほどの物凄い閃光が見え、爆風が届きました。町の方ではガラスが割れたところがあったと聞きました。祖父が慌てて防空壕に避難させてくれましたが、これは手遅れというものだったでしょう。
 サラリーマンだった祖父がこれまで経験のなかった農業を始め、色んな工夫をして農作物を作ってくれて、家族の皆を養ってくれました。最初はカボチャや薩摩芋しか作れなかったので、毎食の主食がカボチャか薩摩芋でした。肌や爪が黄色くなるほど食べたので、それ以来私はこの二つが苦手です。もう一生分食べたような気がしています。その後は小麦なんかが作れるようになり、食糧事情は改善しましたが、麦踏みもやらされましたし、小麦粉を作るのに石臼を挽いて、手を血豆だらけにしたことを思い出します。祖母や母に連れられてリュックを背負って田舎の農家に、お米などを買い出しに行ったのも、今となっては懐かしい思い出です。
 二年生の二学期から大村の小学校に転入したのでしたが、東京から田舎の大村への疎開ですから、当然のことながら虐めの対象になりました。焼け焦げた布をつなぎ合わせて、母が作ってくれた洋服を来て通学するのですが、少し工夫して洒落た服装にしてくれたので、田舎の子達にはそれが都会的で生意気に見えたのでしょうし、第一言葉が違います。毎日泣かされて帰る日々でしたが、母を心配させてはならない、と家の玄関の前で嗚咽を抑えるのに苦労して、手を引いて逃げた妹に慰められたのを思い出します。
 昭和21年に父がラバウルから復員して来て、23年には仕事の関係で長崎に移ることになり、小学校の5年生から高校卒業まで、私は長崎で暮らすことになりました。
 私は歴史が好きで、昭和史も色々と読みましたが、止むに止まれぬ、と言う事態だったとは言え、勝算も先の見通しもなく、なんと愚かな戦争を始めてしまったのか、と、つくづく思わされます。負ける戦争はしてはならない、と思っています。

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