先月に続いて寄稿いただいた戦争の体験記です。

私の戦争体験     高橋 史郎  78歳

 私が小学校1年生3学期の昭和20年に私の故郷、現出雲市斐川町に特攻隊のための飛行場が建設されることとなり、私達小学校(当時は国民学校)1年生から6年生の全男子児童約400名は滑走路予定地(幅400メートル、長さ2キロ位と記憶)の草の根掘りに、各自竹べらと布袋を用意し、一列横隊で軍事徴用されました。美保海軍航空隊の兵隊さんが大勢住むようになり、私の家にも航空整備兵17人が下宿しておりました。私は夜を兵隊さんたちと過ごす毎日で父が買い集めていたレコード(78回転SP)を蓄音器で毎晩聞かされました。当時の流行歌手は東海林太郎、上原敏、美ち奴、市丸、音丸などの艶歌歌手で兵隊さんたちには大変贅沢な楽しみだったことでしょう。昼は当時学校も閉鎖がちで、私はこの海軍さんを迎えにくるトラックに連れられて飛行場に行って、海軍の爆撃機、「銀河」の操縦席に座らせて貰ったりしていました。
 飛行場が完成すると、毎日のように夕方、近所の料亭の前に軍用バスが来て、若い兵隊さんが、多分最後の御馳走と水杯を交わして、そのバスで空港に向かうのを見送る毎日でした。夜になると特攻機らしい飛行機が次々と飛び立つ音を耳にした後、上空で重いB−29の爆音を聞いたものでした。
 滑走路の表面にコールタールで波を描き、敵に水用地と見せかけようと思ったのでしょうが、だまされてオーバーランしたのは味方の飛行機だけで、間もなく,艦載機グラマンの機銃掃射とB29による爆撃を受けるようになりました。当時学校にも兵隊さんが宿泊し、児童は分団に分かれて、神社やお寺で授業をしたりしていましたが、低学年は空襲ごとの避難に手足まといなので、出来る限り「縁故疎開をするように」と言われ、私は30キロ位離れた、伯母のうちに6月から疎開しました。伯母の家は山裾にある「安子の宮」という神社で、それからの毎日は、朝6時に伯父さんと私は神社の境内と拝殿の掃き掃除をしてお祈りの後、母屋に帰って、母屋の掃除を終えた伯母とお婆さんと従姉たちとお茶を飲んで朝食につくという毎日でした。夏休みが終わった新学期から疎開先の小学校に転校する手続きは終わっていたのですが、夏休み中に終戦となり、私は転校することなく元の小学校に戻りました。 8月15日は夏休みですから、家族全員でラジオの前に座って終戦の詔勅を聴きました。当時青年師範学校に行っていた従兄は夕方、神社本殿に納められてあった白鞘の御神刀を持って学校に行きました。「女子供は米軍に襲われるかもしれないから、更に山奥に避難しなければならないかもしれない」などと話していました。
 家は呉服屋で19年から、「制限切符」が各家庭に配られ、人数によって購入する衣類が制限され、私たちは夜、お客さんが持ってきた制限切符を台紙に貼る作業を手伝わされました。それを提出して仕入れをすることになっていました。 それでも終戦後の食糧難の時期に、蔵にある純綿(当時は人絹、スフなどに対して混り物のない木綿を「純綿」と呼んで貴重品でした)と交換に農家の人から食料を頂き助かりました。
 終戦前、大阪方面からの学童疎開があり、私の家でも兵隊さんと入れ替わりに疎開児童を数人お預かりし、学校でも1学級40人位だったのが一時的に50人位になりました。私たちが袖なし、マントに下駄ばきだったのに対して、疎開児童は外套、洋服に靴履きの児童が多く、色々軽いイジメもあったと思います。後に残るほどのものではないと思っていましたが、最近関西在住の出雲高校同窓会で、大阪の出雲疎開の会会員との交流会を持ったら、やはり「一生あいつは許せない」と言っていた子(今はお婆さん)が居たとのことでした。
 終戦後も衣類だけでなく紙も貴重品で、教科書は新聞紙大の青い着色の再生紙に印刷されたものを、各自家庭で裁断し、布団糸で閉じて持って行ったりした時期がありました。戦後最初に発行された子供むけ雑誌「銀の鈴」(B4版20ページ位)が唯一の楽しみでした。

ソ連軍将校、突然の乱行     市川恭 79歳

 終戦前の旅順は旧満州の各地と同様、中国人と日本人が程よい間隔で共生していたようにも思える。しかし終戦を機に、街の様相は一変した。
 近所の自転車屋の中国人店主が両手に縄を掛けられ、街中を引きずり回される悲惨な姿も目にした。「日本の警察に加担していた」との理由だ。街全体は中国人優位となり、日本人は家にこもって、ソ連兵の略奪に恐れおののく事態となった。堅固な構えの歯科医の祖父宅は、2階の屋根裏が隠れ部屋になり、近所の女性たちが難を避けて昼夜集まっていた。
 その頃、一人のソ連軍将校が祖父の患者として、足しげく来院していた。治療の後は座敷に上がり、昼間は階下に顔をそろえる女性たちと片言の日本語やロシア語で歓談していた。「ここは歯科診療所でソ連軍兵士も治療を受けている。不法行為は厳禁」とのロシア語のプレートを玄関前に掲げてくれるなど、「日ロ友好の輪」ができていた。
 就寝前のひととき、勉強部屋に敷き詰めた寝具に転がって、4歳年上の叔父と弟、私の3人が談笑中、ソ連兵が土足で飛び込んできた。「女、女」と叫びながら拳銃を突きつける。何と歯の治療に訪れていた将校ではないか。同行していたゲーペーウー(秘密警察)と思われる兵士は、乱行に走る将校のガード役のようで、機関銃を肩に我々をにらんでいる。昼間に訪れて見知っていた女性たちが居ない様子に怒った将校は、いきなり銃身で頭上の電球を叩き割った。破片が私たちに降り注いできた。
 怒り狂った将校が靴音高く出て行った後も、私の上下の歯は震えでガチャガチャと鳴りやまず、自分の耳に入ってきた。「歯の根が合わないほどの恐ろしさ」とは、このような状態なのだと実感した。もしも、あの時に口が利けていたら、「天井裏に居る」と口にしたかもしれない。拳銃の勢いにくじけて白状していたら、もっと恐ろしく悲惨なことになったかと思うと、今も身震いがする。

私の戦争体験     長岡靖裕  79歳

1.広島の炎
 その日、小学校3年生だった私は伊予市(当時は北山崎村)の海岸で友達と魚釣りをして遊んでいました。押し寄せる波が魚を運んできて、海岸の一部が池のように残った所で手づかみで捕えることが出来たのです。時を忘れてふと対岸を見ると夕闇迫る海の向こうが真っ赤に燃えているのに気付きました。
 右前方の対岸は広島の方向です。その時は勿論原爆のことなど知る由もありませんが、それが広島焼失の最後の炎だったことが判り大きなショックを受けました。日本の敗戦を決定付けた事実と共に、夜空の赤い炎は今も鮮明な記憶として残っています。

2.空襲の記憶
 その前年、昭和19年は大洲市に近い内陸部に住んでいましたが、その頃はもう日本の海軍も陸軍も本土防衛の力は無く、高知県沖に散開する連合軍艦隊から四国山脈を越えて松山市や空港攻撃に向かう艦載機(グラマン)と南の島嶼から出撃してくるB−29爆撃機の編隊がひっきりなしに上空を往き来していました。地上からは時折り高射砲弾が射ち上がるものの高空には届かず、迎撃機による空中戦も殆ど見ることはありませんでした。
 日中敵機襲来のサイレンが鳴ると家を飛び出して近くの麦畑に逃げ込んだものですが、出撃の際はともかく、爆弾投下して帰投の際は畑と云わず田舎の駅に停車中の列車にも機銃掃射がありました。射ち尽くして帰投するということだったのでしょうが、そんな田舎に日本の軍隊が居る筈もなくパイロットの人狩りだという噂がまことしやかに囁かれていました。

3.横暴な軍人
 子供心にも軍人の威張りくさった態度は心に焼きついています。連日連夜“敵艦5隻轟沈”とか“○○島奪還”といった虚偽の大本営発表を聞きながら、昭和19年当時でさえ果たしてどれだけの人が(恐らくは軍人でさえも)それを信用していたのだろうかと思ってしまいますが、しかしそれだからこそ軍人(当然憲兵もいたでしょう)が高圧的な態度で周囲に目を光らせて反戦・厭戦的な言動を封殺しようとしていたのでしょう。従って日頃から彼らに対し恨みつらみを持つ人は少なくなかったと思われますが、敗戦と同時にどこに逃げたのか姿が見えなくなっていました。

4.乾パンの記憶
 当然、敗戦前から食料の配給はあるものの、対象となる食材は、米、麦は少なく芋類の比率が高く、誰しも空腹を抱えていました。おそらく米粒が数えられるほどしか入っていないお粥や雑炊(水とサツマ芋の切れはし、芋ヅル、葉っぱが主体)が主食と云ってもよい状況だったと記憶していますが、当時の苦い笑い話に「今日は珍しくたにし貝が入っているぞ」と云うのでよく見ると自分の目玉が映っていたというのがあった程です。
 配給のサツマ芋も満足な形や味のものは少なく、部分的に腐りかけ残りの部分から芽や葉っぱが生えてきているものが少なくありませんでした。
 そんな状況の時、敗戦直後でしたが予科練に志願していて当時は高知県で松ヤニの採集(乗るべき艦船も飛行機もなく松の木から燃料の材料を採取していたのです。そんな所でも空襲で逃げこんだ防空壕が爆撃の直撃を受け九死に一生を得たということでした。又、あと数か月敗戦が遅ければ鹿屋基地の特攻隊送りになる所だったとも証言していました)に従事していて、無事に帰宅してきた際に沢山の乾パンを持ち帰ってきて、しばらくはご馳走を食べた気分にさせてくれたことはよく覚えています。今なら誰も見向きもしないものですが当時はそれだけで飢えが満たされ幸せな気分になれたものでした。

太平洋戦争にまつわる記     尾内理雄 75歳

 私は昭和15年9月25日(西暦1940年、皇紀2600年)に兼業農家の長男として、兵庫県神崎郡八千種村2832番地(その後昭和31年の町村合併により福崎町八千種2832番地と改称)でこの世に生を受けた。太平洋戦争勃発の前年のことであり、父は小学校の教師をしていた。

 [ 戦争の記憶 ]
 太平洋戦争は昭和20年8月に終わったので、小学校入学(昭和22年4月)前の私には戦争にまつわる記憶はさして多くはないが、今でも鮮明に憶えている出来事も幾つかある。おそらく昭和19年〜20年の出来事だったと推定される。

・B29に狙われないための対抗策
 戦時中は米軍のB29戦闘機が度々上空に飛来し、その都度警戒警報のサイレンがけたたましく鳴り、人々は薮の中などへ逃げ込んで息を潜めB29が飛び去るのを待った。
 B29から家を見えにくく装うために、白壁のある家はその白壁を墨で真っ黒に塗りつぶしていた。墨の塗り方が斑であまり見栄えのいいものではなかったが、そんなに丁寧に塗っている余裕もなく止むを得ない措置だったのだろう。
 夜は家の中の明かりが外に漏れるのを防ぐために電灯を幌で覆った。当時は蛍光灯などは無く、電線コードで天井から直接吊るされた茄子形の裸電球の上にガラス製や紙製の傘を備えた電灯であり、その傘から筒様のジャバラの幌を吊るして電球を覆い電光が真下にしか届かないようにした工夫であった。しかしながら、このために家の中はうす暗くて不便だった。
 B29の攻撃を逃れるために防空壕(シェルター)を掘る家もあった。私の父も家の前の田んぼの東側(若宮神社の北側)に接した我が家の薮の中に何日もかけて防空壕を掘った。実際に何回かこの防空壕に逃げ込んだ記憶がある。今では滑稽にしか思えないが、寝る時に使っていた櫓コタツと布団を抱えて下駄履きでこの防空壕に駆け込んだこともある。

・じゃこ獲りの途中、溝に身を伏せた
 太陽がギラギラと照りつける夏の日に麦藁帽子をかぶり魚獲り用の網を持って父と二人で、家から約1kmほど離れた上代の我が家の田んぼのあたりへじゃこ(魚)獲りに出かけたことがある。田んぼの近くで獲っていたとき突然警戒警報のサイレンが鳴り、東の山の陰からB29戦闘機が数機現れた。白いシャツを着ていた父と私はとっさに田んぼと田んぼの間の溝に伏せた。1分間くらい(?)そのまま我慢して息を潜め、B29が去ったのを確かめて溝から起き上がって近くの溝でじゃこ獲りを続けた。警戒警報が鳴ることはよくあったので特別怖いこととは感じなかったように思う。
 当時の田んぼの溝には鮒やどじょう、時には鯉や鯰なども生息しており、溝に網を差し込んでこれらを捕らえるやり方で結構よく獲れたものだ。また田んぼにはタニシやイナゴも沢山いた。タニシは煮て食べるとサザエのようであり、またイナゴは畔に生えている草の茎に数珠玉様に串刺しにして持ち帰り油で炒めて食べると香ばしくて美味しかった。
 1反4畝ほどの大きさだった我が家の上代の田んぼは当時は最大級だったが、今から30年近く前に行われた国策による耕地整理で一帯が整然とした広い田んぼになっており、いま訪ねても当時の面影は残っていない。耕地整理後の数年間は休耕田のように作物は何も作っていなかったが、その後は耕地整理に伴って組織された営農組合が稲などを作っているようである。

・運行中の汽車が襲われた
 八千種村には江戸時代以前からの古い田畑の他に比較的新しい開墾地(江戸時代末期に開墾?)もある。ここに農家は薩摩芋を栽培していた。肥沃でない開墾地では米は育たないからである。毎年春になると種芋から芽を吹かせ苗を育てるための温床を作った。温床で育った薩摩芋の蔓をハサミで25cm程度の長さに切り開墾地に作った畝に約30cm間隔で(蔓の根に近い端を下にして)植える(差し込む)のである。
 春の温かい日に父が例年のように家の庭に温床を造っていた。まだ体が小さかった私には温床の柵が高くて跨げないので外側から柵に足をかけて内側へ転がり込むようにして中に落ちり同様に外へ出たりして遊んでいたが、ちょうど中に転がり込んだそのとき、突如警戒警報のサイレンが鳴った。
 あわてて柵の外に転がり出たが起き上がる間もなくB29が数機が隊列を組むように薮の向こう(東)から上空に現れた。そしてその内の2機が南西方角にある隣家の向こうへ急降下して視界から消えた。他のB29はそのまま西北西方向へ飛び去った。翌朝新聞を見た父が、約3km西方を南北に走る播但線で溝口駅と香呂駅の間を運行中だった汽車がB29二機に襲撃されて怪我人が出たらしい、と教えてくれた。(当時私はまだ字が読めなかった)

・学校の運動場が薩摩芋畑に
 夏になって、小学校(正しくは村立八千種尋常小学校とよばれた筈である)の上下二面あった運動場のうち、一段低くなっていた広い(下段の)運動場が薩摩芋畑と化したのを見て大いに驚いたことを思い出す。一面に芋の葉が生い茂ったこの運動場は、それ以前は多少の草以外は何も生えていない広場だった記憶があったからである。戦時中の食糧不足を補う手段だったと思われる。
 村立八千種小学校は、明治17年(1984年)に当時庄、余田、南大貫などにあった小規模学校が合併し八千種全体を学区として発足したのがその前身であり、昭和59年に創立百周年を迎えた歴史ある小学校である。

・家庭から金属製の物が消えた
 当時各家庭にあったほとんどの金具、バケツ?や火箸などの金属製の道具は武器の原材料として殆どすべて供出させられ、民家から金属製品がなくなっていた。多くの寺では鐘楼から釣鐘が取り外されてなくなっていた。

 上に記した戦争に関する記憶の他に、姫路川西の軍需工場が空襲を受けたときの様子について [南南西の方角の空が夜にもかかわらず真っ赤に染まっていて、まるで真昼のようだった。] という話を聞いたことがあるが、私の記憶には残っていない。

[ 終戦後の記憶 ]
・物資不足
 終戦直後は極端な物資不足状態(当時幼かったので私自身はそのような認識はほとんど無かったが)が続き、政府が各家庭にチケット(生活物資の購入券で正式の呼び名は思い出せない)を配布し、消費物資の総量をコントロールした時代があった。
我が家にはお金もそんなにあったとは思えないが、仮にあったとしても政府が発行したこのチケットが無ければ何も買えなかったのである。チケットにはそれで買える物品も定めてあった。食料品、シャツ、その他の消費財などの生活必需品が対象で、国民が戦時に引き続いて忍耐の生活を強いられた時代だった。母の生家が近くにあり雑貨商を営んでいたので種々便宜をはかってもらったようではあるが、生活物資の確保には頭を悩ましているように思えた。

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