先月に続いて寄稿いただいた戦争の体験記です。

陸軍予科士官学校−空襲で戦死者多数    國安輝久  89歳

 昭和16年9月、市ヶ谷の予科士官学校は朝霞のゴルフ場跡に移転したが、東西演習場は80万坪、校舎用40万坪の広さであった。今は自衛隊と住宅街が利用している。
 支那事変で突然多くの若手将校を失ったので、小生の入った60期から採用人数を今までの500名から4000名に増やしたが、先輩期からは粗製乱造とからかわれた。生徒40名の一区隊に若手将校1名が区隊長として選任され、さらに内外部隊から優秀な下士官2名が各区隊に配属されていたが、将校、下士官の不足時代としては貴重な人材配置と言われた。
 予科士では午前学科、午後実科の生活を送ることができたが、昭和20年に入ると夜の空襲警報発令で睡眠不足が続き、午前の学科では居眠りが多かった。
 空襲が激しくなったので、演習場の松の木を伐採し校舎前の空き地に防空壕を掘ることとなり、3−4名は入れる壕を掘ったが勿論機械はない。
 昭和20年4月7日(私の誕生日)の昼頃、B29数機が大泉学園駅方向から予科士方向に低空飛行で飛んできたので、大急ぎで造りたての防空壕に飛び込んだが、その瞬間電車が轟音を立てて近接してくるような大音を耳にした。
 途端に防空壕の天井の松の木が頭上に落ちてきたが、更に回りの土がさらさらと足元から上に上がってくるではないか。これは大変とわずかに光が見える松の木の間から外を覗くが、埃で何も見えないままアッという間に肩まで土に埋まってしまった。校舎と演習場はすべて地面が柔らかく崩れやすい関東平野に位置していた。少しでも楽をするため、柔らかな地面を掘って自分の壕の場所と決めていたので、当然ながら崩れやすい防空壕が出来ており罰が当たったのだ。
 外から引っ張り出してもらって何とか這い出すことが出来たが、抱えていた九九式軽機関銃を引きずり出すのに往生した。外に出て回りを見渡すと、目の前にあった中隊校舎は半壊、周囲にあった防空壕はどこにあったのか、見当もつかない。爆弾が落ちた跡は直径50米の漏斗になっており、今までの道路も何もかも土砂に埋まっていた。気が付くと大勢の同期生が、ここ掘れ、そこ掘れと怒鳴りまくって埋まった防空壕を掘っている。
 残念ながら10名近くの無言の仲間が壕外に並べられており、私は1年生の区隊責任者だったので、生存者の確認に忙しく、全員無事だったときは安心して腰が抜けたようになった。
 終戦後の上野駅での電車追突での負傷、また日暮里駅の陸橋落下事故では柱にしがみ付いて落下を逃れて一命を得たが、3回命拾いをしたことになる。
 その後命に関するような大事故にあっていないが、思い出してもぞっとする3回の大事故は忘れることはない。戦死者と落命者のご冥福を祈る。

私の8月15日    遠藤博司  85歳

 今年は終戦から71年がたちました。今になってみると終戦前後のいろいろなことについては大分記憶が薄れ断片的になってしまいました。
 そこで終戦の日の記憶をたどってみました。

 昭和20年8月15日12時私は小田原の焼け跡にいた。
 中学3年生だった私は2年生の秋から真鶴の実家から小田原近郊の工場に動員され水上飛行機のフロートの製作に従事していた。
 この工場には地元の女学生や山形の女学校の女子生徒も動員されていた。山形の女子生徒は遠く実家を離れ市内の割烹旅館に寝泊まりしていたようだ。
 20年になるとB−29による主要都市に対する空襲は日増しに激しくなってきたが小田原はグラマンやP−38艦載機による機銃掃射を受けただけで空襲はなかった。
 それが14日の夜半に初めて空爆による被災を受けた。
 15日の朝、今日の正午に重大発表があるから放送を聞くようにというニュースがあった。昨夜の空爆で親友の家近くが被害に遭ったと聞き、工場に行かず友人の家に行ってみた。
 空爆の被災地は惨憺たるものであったが友人の家は幸いにも隣家まで類焼で、ぎりぎりのところで残っていた。
 12時の玉音放送は友人や付近で跡片付けをしていた人たちと焼け跡で聞いた。多分誰かがラジオを持ってきたのだろう。
 天皇の声は雑音が多く放送を聞き終わってもそのときには放送の内容が何であったか解らなかった。
 焼け跡で弁当を食べていると大人たちが「戦争に負けたのだ。もう戦争は終わったのだ」と話しているのを聴きやっと戦争が終わったことを知ったのである。
 その日の列車はそれほど混乱していなかったのであろう。夕方家に帰ったが灯火管制で暗くする必要もなくなり明るい電灯の下で食事をしたことが今でも思い出される。
 その後自宅待機となり、海の見えるみかん畑に行ってみると相模湾の沖合数百メートルのところをアメリカの軍艦が白い航跡を残して航海しているのが見えた。

 戦後の混乱期から、復興期を経て今日の物質的な繁栄期に至ってきたわけですが、その間、国内では戦争のない「平和」が続いています。
 最近いろいろと生臭い話も聞かれますがこの貴重な「平和」を守り続け私たちの子孫に残し続けようではありませんか。

過ぎ去った私の青春    田中通義  89歳

 昭和18年初頭に合格通知が届き、同年3月20日までに東京・立川にあった東京陸軍航空学校(後に改称、東京陸軍少年飛行兵学校)への入校が決まる。16歳、紅顔の少年は父と姉に添われて無事入校を果たし、いよいよ娑婆社会から離脱することになる。

 この学校で1年間の基礎教育が始まる。午前6時の起床・朝食・航空体操を経て午前中は一般教養・軍事学科、午後は演習又はグライダーの滑空訓練と続き、これらの後に入浴、夕食と、分刻みの規則正しい日課を終了することになる。午後7時から自習室で2時間の自習とその日の出来事を反省録に書きとめ、9時点呼、消灯ラッパと共に眠りにつく。輪番制で10日に一度、1時間の不寝当番が回ってくる。厳冬の不寝番に立てば、残余の就寝はとてもおぼつかない。しかし朝6時の起床は無慈悲にやってくる。夜中、大食堂、(約1000人収容)に忍び込み、湯たんぽ用に水筒一杯のお湯を失敬することもあったが、見つかれば処罰を受けるので繰り返し行えない。振り返るに、飛行兵育成揺籃の地で食糧難も知らず学徒動員もなく、教育と体育の練磨に明け暮れた往時を懐かしく追想する。

 立川航空技術研究所において、数度にわたる空中勤務者・適性検査などを経て、卒業を間近に操縦、機上通信、機上整備への進路決定がなされ、上級校に進むことになる。私は念願かなって操縦の分科に決まり、宇都宮飛行学校へと進んだ。この飛行場で1年間の飛行訓練と気象・航法学などの専門教育を受けることになっていたが、昭和19年の夏ごろになると戦況が悪化し、航空燃料の不足と相まって空襲などの脅威から、通称、赤トンボ機での練習は不可能となる。飛行場を他に求めて栃木県・壬生、茨城県・下館飛行場と移動するが練習機での操縦訓練は不発で、もっぱらグライダーの訓練に終始する。本土内での飛行訓練が不能との理由から、翌昭和20年2月に急遽、下関から乗船し対馬海峡を渡り釜山で下船、陸路、蔚山(加藤清正ゆかりの地)飛行場へと向かった。はからずも、空襲はこの地にまで及んでおり、またもや飛行訓練どころか、空襲警報時にはガソリンの入ったドラム缶を二人がかりで近隣の林檎園へと転がし退避・遮蔽することになる。警報が解除になるまで、邦人が経営するりんご園で悔しさのなか空を見上げ、今に迎え撃つ日が来ることを誓いながら、目の前の美味しいりんごを腹一杯むさぼったことは未だに忘れがたい当時の一齣である。その後、第5空軍団・第九練習飛行隊の移動命令により、さらに北へと向かう。転地は、現在の38度線近くの春川飛行場であった。少年たちは先輩達が次々と悲壮な戦死を遂げる戦況を知ることなく、ひたすら飛行訓練を目指し精神横溢の日々を送った。
 軍隊生活は私の生き方に大きく影響し、私は心身ともに大きく成長したと思う。
 幾多の試練をくぐりながら、淘汰に淘汰を重ね約3個中隊(約500名)ほどの操縦選抜隊が春川飛行場に転地した。当時の戦況から軍の上層部は多くの操縦者養成が急務であったことから、少年飛行兵学校も東京・立川の本校に加え、昭和18年から大津校が開校する。戦後、故竹下登元首相は大津校の区隊長の任にあったことを知る。
 さて、春川飛行場における待望の飛行訓練は他の先行隊の訓練を待たなければならなかった。当時の消耗戦が続く中、国は、私たちより2〜3歳年上の若者を対象に即戦力として速成教育を余儀なくされる。後発ながら特別操縦見習士官候補生や特別幹部候補生の制度が加わり、多くの学徒がこの道を選ぶことになる。このような状況を客観的に展望できなかった私たちは、早く一人前の操縦士として戦地での功をあせる思いに耽っていた。顧みるに、実はこの遅滞した訓練が影響して私たちの養成が阻まれ、結果的に私たちは死を免れることになる。
 いよいよ飛行訓練の初日を迎えた。操縦助教官は当時の逓信省・広島県出身のベテラン角軍曹であった。初飛行にあたって、ピットで指揮官に操縦訓練開始を申告し、駆け足で赤トンボ機の操縦席へ、躍る胸を押さえながら座席に丁寧に折りたたんだ落下傘の上に座り、これと安全ベルトをしっかり体に締めつける。私は前部操縦席、教官は後部操縦席で連動するそれぞれの操縦桿を握る。これらは、現在の自動車教習所における実地運転に似ている。前後の連絡は伝声管によるが、勿論指示は後ろから一方的に飛んでくる。離陸前のエンジン全開を確認し、防風・眼鏡を下ろし、左手でレバーを徐々に引き上げると同時に右手の操縦桿を十分前に押さえ込み後部車輪を早く浮かせ機体を水平に保ち加速させる。プロペラの回転で風圧が後部・垂直方向舵に当たり機首が左右に揺れるのを両足で修正しながら離陸の瞬間を見計らう。
 レバー全開、時速(風速)80キロメートル程度で操縦桿を軽く引き上げると、ふわっと離陸する。戻し舵で機首の過度の仰角を押さえ、エンジンの順調な回転を祈りながら上昇飛行を続ける。これらは全て教科書どおりで操舵はグライダーと変わらない。第一コーナーを左へ上昇・旋回し、第2旋回コーナー寸前まで上昇を維持し、再度左へ水平旋回、高度300メートルを維持し水平飛行となる。この間に教官からの指示が飛び、「操縦桿を左へ倒せ!」、「右へ倒せ!」、「左足で方向舵を踏め!」、「右足で踏め!」、などの指示に従がって操作し、機体の動きを確認する。微小な操舵で機体が大きく変化するのが恐ろしく、十分な操作ができていないので、後部座席から「もっと大胆に操作しろ!」と伝声管で怒鳴られる。「顔を機外に出せ!」の指示のもと実行すると、鼻水がパッと後方へ飛び散る余興もある。やがて、第3コーナーにかかりエンジンを少しずつ絞りながら左・下降旋回、またたく第4コーナーを迎える。旋回直前に左を見ながら滑走路の着地点を確認しつつ左へ下降旋回、同時にスロットルを絞り込み地上約10メートルあたりでエンジンを最小回転にする。着陸は三点着陸(前2輪と後部1輪)を目指し、接地時には機体を失速状態に維持する一番難しい操作となる。着地と同時にごっとん、ごとごと・・・と余力で走り続け、走力が弱まった頃、断続的にブレーキを数度踏み込む。完全停止を確認後、安全ベルトをはずし、機の縁を跨いで翼の根元に降り立ち、地上へ降りる。両足が、がたがた震えるのを覚えながら、指令ピットへ駆け足、訓練終了の報告をする。飛行場外周を約15分間で飛行し全神経を集中しての訓練は、私には1時間とも思える夢のような緊張した初飛行であった。この同乗・飛行訓練を80回程度(約20時間)繰り返すと単独飛行となり、これを経て内地であれば、はれて待望の家庭訪問飛行に赴き、まさに、これを夢見て多くの純真な少年たちが志願したのである。
 練習機、ガソリンなどが不足する関係から毎日操縦訓練はできない。3日に1回ほどの割り当て搭乗だった。ちょうど私は搭乗非番で同僚5〜6名を引率し作業に向かう途中、今まさに離陸しようとしていた仲間の練習機がブルンブルンと異常音を発するのを耳にした。「危ない」と叫んだ瞬間、機は離陸をあきらめ、前方に不時着するが湿地のため車輪が回転せず、エンジンを軸にとんぼ返りで転倒する。垂直尾翼が支えになって逆さまになった状態でも、助教はかろうじて両腕で体の落下を支えていた。はて、練習生はと見ると私の位置からは顔が見えない。体重を手で支えきれずに頭から落ちたため首が90度曲がって顔が沼地にのめり込んでいた。私と同僚が搭乗者の安全ベルトを開錠すると2人は地面に崩れ落ちるように投げ出された。機体の後部を持ち上げて反転し機体を正常の状態に戻す。ようやく救急隊が自動車で駆けつけ両人を無事収容する。
 笑うと、リスのように可愛く光った前歯2本を、あの飛行訓練中の事故で失くした下村飛行兵は退院後、元気に軍務に復帰することができた。
 しかし、あの事故以来、操縦助教の経験不足からくる技量未熟が顕在化し、私たちの不安を駆り立てた。後発ながら制度化し、私たちより2・3歳年上で速成教育過程を経たあと、多くは実戦部隊へ、そのうちの技量優秀な数名が私たちの飛行訓練を指導することになった。服従は軍における最も厳しい軍律であり、黙々と従って同乗飛行訓練に励むが、地上から見ていても不安定な操縦指導が目に余る場合もあった。特に着陸時の未熟な操舵は、時には2〜3回大きくバウンドをして機を損傷することもあった。前にも述べたが、私の助教は逓信省出身のベテランであったことから不安は全くなかった。しかしながら、深刻化した戦況は人的、物的欠乏を招いたのであろう、飛行訓練が殆ど休止状態になり、炎天下の中、またグライダーの訓練に切り替わる始末であった。
 8月15日の終戦は、炎天下の飛行場に全員が集合し、2日遅れで私たちに伝達された。春川飛行場での終戦伝達の日から復員までの約2ヶ月間、この地でどのように過ごしたか、その殆どの記憶を喪失している。しかし、飛行場から完全軍装で軍刀と99式小銃を携行し、列車で南下する途中、「チョウチン」と称する町の小学校で一泊したことは鮮明に覚えている。夜間、私は同僚と歩哨の番に当たり深夜を警らしたが、近隣の韓国人群集の日本から独立祝賀の声、或いは、私たちの滞在を知っての示威運動なのか、敗戦を知った私たちには何とも不気味に聞こえた一幕があった。事なきを得て翌朝には列車で釜山港に向けて出発、午後4時ごろ、この地に着く。なんと、一人も見なかった米兵が山ほどいるではないか。ここで自主的に武装解除し、階級章をはじめ一切の武器弾薬、軍刀などを処分する。軍刀は既に掘ってあった大きな穴に投げ込むことになるが、思えばこの年の2月に下館飛行場にて父と姉との面会で譲り受けた鎌倉時代の古刀*「写真:刀身を新たに軍装した結果、家に残った柄と鍔」で家宝の小刀であった。感無量の思いで投げ捨てた。乗船を前に4列縦隊で最後の屈辱とも思える身体検査を米兵から受け貴重品と思われるものを米兵は靴下の中に投げ入れる様子を見て、ようやく敗戦の実感が胸を突いて出た。私を担当した米兵は同輩ぐらいで、インテリ風の美男子で、私の時計と万年筆を取り上げ眺めていたが、直ぐ私に丁寧に戻してくれた。このとき、私は英語で二言三言話しかけたが、もちろん通ずるわけがなく無視された悔しさが後々まで尾を引いた。
 乗船手続き終了後、直ちに輸送船に乗り込み出航する。思えば陸路の引き上げ路で何を食したか何を何処で飲んだかなどは一切記憶にない不思議な退路の旅であった。釜山港を出航し約6時間で鳥取県・境港に到着、下船後、ここにて軍務終了解散となる。
 時に、昭和20年10月10日、まだ18歳半ばを過ぎたばかりの少年、軍籍には2年6ヶ月いたことになる。境港に降り立った前日まで、この地方は豪雨で水害地と化し、京都周りの帰郷をあきらめ、米子経由で岡山に行くことにする。このときの伯備線からの景観が素晴らしく、山から山へと続き片側が深く切れ込んだ渓谷は絶景で、一度の旅路にもかかわらず71年を経た今でも忘れがたい一齣として脳裏に深く焼きついている。たった8ヶ月程度の離日であったが、戦争という計り知れない大きな山を越えた安堵と、これからどうしようと思う不安が錯綜する月日であった。もちろん、広島に原爆が投下されたことなどは知る由もなかった。
 岡山から横浜までの列車は復員者と買出の人たちで立錐の余地もなかった。戦時中の帰省時には思いがけない人々の視線を感じ、自身の誇りを感じたものの、敗戦直後では日々の生活防衛にあらゆる手段を求める多くの人たちの懸命の姿がそこにあった。横浜駅に着くと、ここは何処の国かと思うほど、米兵が丸腰姿で線路越しにプラットホームでわめき合っている異様な光景を見て、真に日本は負けたのだ、との思いを私はひしひしと実感した。

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