先月に続いて寄稿いただいた戦争の体験記です。

私の戦争体験       神間清展  77歳

私は、昭和14年(1939年)の生まれで、終戦の年は6歳で国民学校1年だった。戦争体験が書けるのは私くらいの年代の人が最後だろう。この戦争体験を中学生の頃に書くように言われたら、もっと鮮明に思い出しただろうが、今になって70年も前の事はそんなにリアルに思い出せない。

1.幼稚園の転園のこと
 生まれたのは、静岡県浜松市の郊外で、住宅と田畑が散在するところであった。幼稚園に昭和19年4月の5歳から通ったのだと思う。今、地図で探しても分からないが、20分ぐらい歩いて行く幼稚園であった。その年の途中からアメリカ軍の飛行機による爆撃が激しくなってきて、空襲警報が出されると、そのたびに幼稚園から家に帰されるようになったらしい。郊外で工場もないので近くに爆弾が落とされるようなことはなかったが、たびたび家に帰されるので、近い幼稚園に転園させられた。

2.空襲・爆撃のこと
 浜松市は地場産業の紡績が盛んであり、そのための織機などの製造工場があり(その1つがスズキ自動車になった鈴木織機である)、またヤマハ楽器を代表とする楽器の製造工場もあった。それらが戦争中は兵器工場になっていたのだと思うが、それを狙った米軍の爆撃機による空襲があった。家の狭い庭には父が作った防空壕があった。家族5人がやっと入れるくらいの穴を掘り、上に板を渡し土を被せたものだった。夜に空襲警報が出ると、眠っているところを起こされ、着替えて、家族で防空頭巾を持って、防空壕にもぐりこんだ。空襲があっても家の近くが爆撃されたことは無く、防空壕に避難していたので爆撃機を見たことはなかった。ただ、爆撃機はB29と呼ばれ、戦闘機はグラマンと呼ばれていたことを覚えている。学校に上がる前後のことだと思うが、たびたび空襲があるので、母に「これでは戦争に負けるね」と言ったところ、母は「そんなことを言ってはいけません。お巡り(おまわり)さんに連れて行かれますよ」と叱られたことを覚えている。戦争に負けるということは言ってはいけないことで、警官に捕まるということであった。
 空襲は家から離れたところへの爆弾投下がほとんどだったが、太平洋岸に近づいた軍艦からの艦砲射撃もあり、夜中に爆発音が次々と聞こえた時もあった。戦後68年後の平成25年に、JRの浜松工場で軍艦から打ち込まれた砲弾の不発のものが発見され、列車を止めて海岸に運んで自衛隊が爆破したというニュースがあった。

3.学校のこと
 昭和20年4月に6歳で国民学校に入った。戦争のため物資が無くなっていて、ランドセルは買いたくても手に入らない時代であった。同級生のほとんどが手作りの布の袋に勉強道具を入れて学校に通ったが、私は親が早めに買っておいてくれたおかげで、ランドセルを背負って行った。毎朝、生徒は地区ごとに集まって並んで登校し、学校の奉安殿で拝礼をしてから教室に行った。学校に行っても、ほとんど毎日空襲があり、空襲警報が発令されると授業は中止され、家に帰された。

4.昭和20年4月30日のこと
 学校に行ったが、いつものように朝のうちに空襲警報が出たので家に帰され、母、5年生の兄、私、1歳の弟の4人が防空壕に避難した。暗くて狭い防空壕の中で横になっていたら、眠ってしまっていた。突然大きな音と地響きがした。しばらくして防空壕から出ようとしたら、出入り口の蓋は外から瓦礫で埋まっていた。なんとか外に出てみると、家がすっとんで跡形もなくなっていて、更地のようになっていた。家の台所があった所に爆弾が落ちて、直径5bぐらい、深さが大人の背丈くらいの大きな穴が開いていた。防空壕は爆弾の落ちたところから10bぐらいしかなかったが、幸い家にいた家族4人は無事だった。裏の家は半壊で、押入れに避難していたおばあさんが亡くなったと聞いた。夕方、家が無くなっていることを知らずに父が学校の勤めから自転車で帰ってきた。その夜は、父の知り合いの家に泊めてもらった。翌日か翌々日に、父の勤めている中学校の生徒さん達が片づけの手伝いに来てくれ、爆弾の穴の底から爆弾の破片を掘り出したのを覚えている。新しいランドセルはどこかに埋もれて出てこなかった。

5.母による戦災の記憶
 母が1985年の筑波の科学万博に行った時買った「ポスト・カプセル2001」に手紙を書いて、私達夫婦宛に出しておいてくれたのが、21世紀の最初(2001年)の正月に届いた。その中に、「四月二十九日 被爆四十年をよむ」という題で、趣味としていた短歌が書かれていた。(私はこれを読むまで家が爆撃にあったのは4月30日と思っていた。)
・三人の幼等(こら)脇に庇いつつ爆弾の衝撃の壕におののく
・財全て散る弾痕の淵に()幼等(こら)をたしかむる夕靄(もや)の中
・爆弾に家財すべてを失いて生命(いのち)拾いし道はるかなり残りの道が平坦であると願ふ

6.母の実家での生活
 5月の何日か分からないが、母の実家に住まわせてもらうことになり、家族4人が現在掛川市に併合されている旧原谷村に汽車で行った。父は学校の仕事があるので、学校で寝泊まりすることになり浜松に残った。
 村の国民学校に転校した。都会から戦災を避けるため田舎に疎開してきた人が多く、学校は教室が足りなくて、授業は午前と午後の組に分けて行われていた。私は午前の授業を受けたが、兄は午後の授業だった。空襲警報が出ることもなく、避難するようなことはなかったが、戦争を肉眼で見た。1つは、軍人として徴兵され、汽車に乗って出征して行く村の兵士が、見送ってくれている地元の人に汽車の窓から日の丸の旗を振っているところを、たまたま襲撃に来ていた米軍の戦闘機に見つかり、機銃掃射を受けたのだ。それを数100b離れていたところから見た。もう1つは、米軍の艦載機が近くに建設中の飛行場の偵察に来たが、日本軍の戦闘機の反撃に会い、身軽になるために機体の外に付けていた補助のガソリンタンクを切り落としたのを遠くから見た。その後、近所の大人の人が一升瓶を持って行って、稲の植わった田んぼに落ちたガソリンタンクからガソリンを汲もうとしているのを見に行った。どちらのアメリカの戦闘機も近くて、操縦士の顔が見えるような感じであった。

7.終戦の日のこと
 昭和20年8月15日は、夏休み中であったが、何かがあるというので、昼に学校の校庭に集められた。大人も子供も整列しないで、ばらばらに校庭に集まっていた。ラジオの放送が始まったが、よく聞こえず、また難しい言葉だったので何だか分からなかった。放送が終わって、周りの大人の人の話だと、戦争が終わったらしいと言うことであった。
 8月15日は田舎では旧暦の盆の日である。戦争が終わったというので、青年たちが太鼓を叩いて盆の祭りを始めたところ、大人の人が、「戦争に負けたんだぞ。やめろ。」と言って、止めさせた。祖母の家の近くには朝鮮人がかなり住んでいた。多分、日本に労働者として連れて来られたのではないかと思うが、戦争が終わりその朝鮮人が仕返しをするといううわさが流れたが、幸い騒ぎはなかった。
 戦争が終わっても前と変わらない生活だった。農業をやっていた祖母の家でも米はあまりなく、夕食は主食としてさつま芋とかぼちゃの蒸したものをよく食べたのを覚えている。それも十分でなく、祖母の家に世話になっている身であることが子供で分からず、お替わりが欲しいと母に言って母を困らせたと後から聞いた。この頃にかぼちゃを毎日のように食べたので、大人になるまでかぼちゃが好きでなかった。

8.また引越し
 昭和20年暮れに隣の森町(旧一宮村)の父の持ち家に引っ越しした。その家は、父が若いころ親に買ってもらって住んでいたのだが、浜松に勤めるようになり、借家として貸していたのである。貸していた人が家を空けてくれるのを待って、やっと住めることになったのである。昭和21年1月、引越し先の学校に転校した。1年生で3つ目の学校である。戦災を避けるため田舎に疎開してきた人や、戦災にあったため親戚を頼って移り住んだ人が大勢いた。私達の組は61人もいて、教室は机でいっぱいだった。
 戦後すぐに教科書は変わらなかったが、しばらくして国語の教科書の軍国主義的な内容の部分は墨で塗りつぶさせられた。その後、新しく編集された教科書になったが、物資の不足で、灰色のちり紙のような紙に印刷されたものであった。軍隊から帰ってきて、軍服を着ていた先生もいた。運動場は戦時中畑にしてさつまいもなどを栽培していたので、しばらくは運動場として使うことはできなかった。学校に持ってくる弁当が蒸かしたさつまいもという子もいた。
 都会に住む人が村に食糧を買いに来た。お金をもらっても買う物がない時代であったので、金で払うのでなく交換する着物を持って来ていた。徐々に正常な生活ができるようになると、都会に戻っていく人が出てきて、組の生徒はぱらぱらと減っていっていき、6年になると50人位になった。

私の戦争体験       井後 晴雄  85歳

 私はこれまで自分の戦争体験を文書にして発表したことはありませんが、新田さんの呼びかけに初めて戦争中の思い出を一部報告してみようかと思い、70年以上の古い記憶を思いだしながら書いてみます。
 昭和18年4月、国民学校初等科を卒業したばかりの少年が、将来の民間航空の操縦士を目指して入ったのが、岡山地方航空機乗員養成所という所でした。本科第5期生として60名が入所したのですが、入って驚いたのが入所者は当時昭和3年4月1日から昭和6年3月31日までの3年間の生まれたもので未だ12歳という少年から14歳という年の離れたものまでが同期生として、当時の工業学校機械科によく似た学科のほかに通信科(トンツー)の授業や24時間体制で半ば軍隊の様な厳しい訓練を朝から夜まで受けた事でした。
 1年5か月後千葉県の印旛沼近くの印旛地方航空機乗員養成所に転属となり。同じ第5期生が印旛組、岡山組が合同して120名というクラスとなり1年間終戦の8月15日までそこで訓練を受けました。その中の強烈な思い出を一つだけ記しておきたいと思います。
 昭和20年7月6日昼時間、昼食を終えて一休みというときに空襲警報が鳴り、慌てて防空壕に退避しようとしたとき、突然米軍の艦載戦闘機ノースアメリカンP51が襲来し、いきなり機銃掃射と小型の爆弾が投下され、逃げ遅れたものがその犠牲となりました。直撃弾が一部の防空壕に命中して、ものすごい音で、私も耳の鼓膜が聞こえなくなり何が起こったのかわからなかったのですが、敵機が去ったあと防空壕を飛び出して目にしたものは初めて体験した爆撃のすさまじさでした。この襲撃で少し離れたところで自分の同期生7人が死亡、10数人が負傷するという有様で、その後始末にまさに、てんやわんやの騒ぎとなりました。たまたま私の同じ班の隣で同居していたもの(戦友と呼ばれていましたが)が亡くなり、その戦友の遺骨を、その後関西から母親が迎えに来るまで、空襲のたびに胸に抱えて防空壕に退避していたことを、切なく思い出します。
 空爆での無残な死に方をいや応なく直接見たわけで、暫くそれらの方達の無念の思いが頭にこびりついて終戦でその組織が解散となり、それぞれが別れて帰郷した後も痛ましい思い出となって抜けきれなかったことが、戦後の混乱の中で残っていました。戦後70年、生き延びて既に85歳ともなりましたが、当時の同期生とは今も数は減ってしまいましたが、毎年熱海で同窓会を持ち、当時の辛い悲しい思い出を語り合っています。

学童疎開       大野耕一  80歳

 毎年、8月15日が近づくと、いつも脳裏に浮かぶのは、学童疎開のことである。子供時分のことで、これほど鮮明に記憶していることは、まず他にはない。
 昭和16年(1941年)12月8日に始まった太平洋戦争は3年近く経過し、戦況はあまり芳しくない。圧倒的な軍事力で押してくるアメリカにどうしても刃が立たず、日本は窮地に追い込まれていた。
 いよいよ東京が空襲に遭うという。爆弾を落とされた時に、将来性のある子供たちまで犠牲にするのは忍びないということで、小さい子供たちは都心から逃れて地方に疎開させることになった。というのは表向きの理由であって、時の政府が考えていたのは、足手まといをなくして防空態勢を強化すると同時に、戦う少国民を安全な場所で育成し、人材を確保するということであった。学童疎開は、紛れもなく太平洋戦争の作戦遂行の一つとして実施されたのであって、それはまさしく子供たちの出征でもあったのだ。
 地方に親戚のある家庭の子供はそちらへ「縁故疎開」するが、そうでない子は、学校ごと「集団疎開」することになる。私の家は、母方の祖母の実家が静岡県沼津市の牛臥にあったので、そちらに縁故疎開することもできたが、母は、2歳の時に父が亡くなり一人っ子で育った私に、団体生活を経験させた方が将来のために良いと思ったのだろう、集団疎開を選択した。
 昭和19年(1944年)9月1日、京橋区立鐵砲洲国民学校(小学校の前身)の生徒は、埼玉県秩父市の長瀞とその隣りの野上町に疎開した。東京での住所ごとに寄宿先が選定され、私たちは天理教野上分教会の本堂にお世話になることになった。宿舎としては、ほかに寺や旅館などが当てられていた。
 天理教には、小学3年生から6年生までの約40人が寄宿した。男女40人の生徒が50畳敷きの本堂に蒲団を敷いて寝る光景は、壮観である。私は最年少の3年生、9歳だったが、一人っ子の私が、この年齢でよくもまあ親と離れて暮せたものだと、今になって思う。
 月に1回、子供の親たちが交替で面会に来てくれた。これが、私たちにしては最大の楽しみで、ひと月が待ち遠しかった。ある時、面会に来た母が帰り際に、「わかもと」か何か薬ビンのようなものを置いていってくれた。あとで見ると、何とそれはアメ玉だった。戦時中の甘いもののない時代に、どうやって手に入れたのか知らないが、母の気持を察して、夜寝る時、私は頭から蒲団をかぶって、しばらく涙を流していた。
 疎開して一年も経たないうちに、昭和20年(1945年)8月15日がやってきた。その日は、朝からまわりの大人たちの様子が違っていた。正午に重大な放送があるから全国民が聞くようにと言われていたので、子供たちも何かを感じていたのだろう。宿舎にはラジオがないので、全員近くの民家に行き、起立して、天皇陛下の玉音放送を聞いた。
 ラジオから聞こえてくる音は、ガリガリという雑音ばかりでよく聞きとれないし、この放送が何なのか、私たちには全然わからない。しかし、放送が終ると、大人たちは皆泣いてしまっていて、何も手がつかない状態だ。お昼だというのに、食事の用意すらしてくれる気配がない。子供たちも何も言い出せず、とうとう3時過ぎまで昼食を食べられなかった。後から戦争に負けたということを知って、子供心に「ああ、これでやっと親と一緒に暮らせる」と安堵したことを思い出す。お蔭で疎開先は空襲に遭うこともなく、私たちは1年2ヵ月弱の疎開生活を終えて、10月22日、全員無事に東京に帰ってきた。
 私は、集団疎開を選択してくれた亡き母に、大変感謝している。集団疎開では、親しい友人がたくさん出来たり、田舎の生活でめずらしい体験、たとえば、わらじを編んだり、軍用機の燃料にする松根油を取るために松の根っ子を集めたり、河原でドラム缶の風呂に入るなど、都会ではなかなか体験できないようなことをいろいろさせてもらった。いや、それ以上に、団体生活での規律や常識を学び、私が成長していく上での、目に見えない大きな力になっていると思うからだ。母よ、有難う!
疎開児童たちと関係者(前列右から5番目が私) (画像のクリックで拡大表示)

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