「私の戦争(戦後)体験」は今月で一旦終了します。でも今後とも原稿をいただければ載せたいと思います。4月号から8月号まで5か月にわたって、合計18人の方からいただいた貴重な体験談を掲載させていただきました。ありがとうございました。

戦車隊とグラマン機  ― 私の戦争体験―      本多 一基 84歳

 太平洋戦争が終結して71年が経過しました。私は昭和20年8月15日の終戦のとき旧制中学2年生で、天皇陛下の玉音放送をラジオの前で聞いています。
 私が生れ育ったのは埼玉県北埼玉郡大越村という利根川沿いの農村地帯で、田山花袋の名作「田舎教師」の舞台になったところです。このあたりを流れる利根川は川幅が800mもある大河です。この田舎での戦争末期の暗い思い出を3つ書かせて頂きます。

 昭和20年になると村の小学校に「戦車隊」が駐留するようになりました。戦車の数が10数両、隊員数が60余名と聞きました。私は、ある土曜日の午後、小学校へ行ってみました。
 すると戦車を点検中の隊員さんに会いましたので、挙手の礼をすると隊員さんが問いかけてきました。「君は中学生のようだが、何年生かね」、「はい、2年生であります」、「そうか。どうだ、戦車の中を見るかね」と言われましたので、私はビックリして「はい、お願いします」と答えたのです。
 こうして私は偶然にも戦車の中を見学させて頂きました。その戦車は3人乗りの小型戦車で、前方右側に操縦席、左側に副操縦席、中央上部に射撃席があり、射撃席の周りの壁には長さ20数pの砲弾が備え付けてありました。その数は50発以上あったと思います。操縦席や射撃席の壁面には、幅5mm、長さ30pくらいの「細く長い透き間」があり、それが「戦車の窓」とのことでした。ここに眼を押しつけて外部を見るのですが、戦車の近くは見ることが不可能でした。
 戦車の中を見せてもらった私は隊員さんにお礼を言って帰宅しましたが、そのころ日本は沖縄の戦で敗れ、いよいよ「本土決戦」が近いと言われていました。そのときは小学校に駐留している戦車隊の兵隊さんが、この村の中でアメリカ軍と戦うのかと思うと少年ながら非常に暗い気持になったものです。
 一方、銚子近くの太平洋にはアメリカ軍の航空母艦が来ており、そこから「グラマン戦闘機」が飛び立ち、それらが10機くらいの編隊を組んで利根川の上空を低空で北上し、群馬県太田町にあった「中島飛行機工場」を襲撃していました。グラマン戦闘機は主翼の尖端が丸くなく、方形(四角)なのが特徴でした。私達は数人で利根川の堤防の草むらにひれ伏し、グラマン戦闘機の編隊を眺めました。よくも機銃掃射に遭わなかったと、いま考えても怖くなります。
 当時、中島飛行機工場は東洋最大の航空機メーカーと言われていたので、その工場がグラマン戦闘機の襲撃により短期間で破壊されたのは、我が国にとってはたいへんな痛手であったと思います。
 また昭和20年5月から8月まで、東京から母校の建設中の校舎へ「軍儒工場」が移転してきて、そこに動員されて働きました。仕事は旋盤やフライス盤を操作する工員さんの補助で、私達はそこを「学校工場」と呼んでいました。製造したものは飛行機の翼に取り付ける「ハンドポンプ」と言う部品でした。
 毎朝、校門を入ると行くところは教室でなく「学校工場」なので、こんな状態が何時まで続くのだろうと不安な毎日でありました。
 こうして終戦を迎えましたが、もし終戦が2ヵ月ぐらい遅れて「本土決戦」が行われていたなら、今日の日本の姿は変わっていたと思います。北海道へはソビエト軍が上陸し、関東地方へは太平洋側からアメリカ軍が上陸して、日本列島は分断されていたしょう。
 関東地方の地図を見ても千葉県の九十九里浜や茨城県の鹿島海岸は平坦なので、アメリカ軍が簡単に上陸して日本軍は防ぎようがなかったと思います。
 戦争末期のことを知る人は年々減少していますが、戦争だけは如何なることがあっても絶対に避けなければならないと思う昨今です。

私の戦後体験      多田奨  75歳

 私は昭和16年3月の生まれで終戦時には4歳です。
 よって、戦争体験はありませんが、世田谷区下馬の家から20年3月の東京空襲で西多摩軍都瀬戸丘の親戚へ母と疎開した際、防空壕から東京の空が燃えているのを見た記憶があります。
 戦後の窮乏生活は子供心に深く刻まれています。戦後は渋谷区代々木山谷で周囲焼け野原の耐乏生活を経験しています。
 父の会社の仕事がなく、給料が遅配で母の箪笥の着物を父が秩父なぞへ持っていき、食料と代えて貰って糊口をしのぎ、乳母日傘のお嬢様育ちの母は慣れないミシン裁縫でそれでも主婦の友の型紙を使って私や弟のYシャツ、ジャンバーなぞ、気の利いた洋服を作ってくれました。
 私は近所の悪がきに交じって近くの山の内公爵屋敷跡でターザンごっこに興じたりしていました。
 配給の券を持って初台のパン屋さんへ並んだこともあり、小学校は昭和22年世田谷区野沢町旭小学校へ入学し、5月渋谷区代々木山谷へ転居のため、焼損した山谷小学校へ転入、6月復興まで初台の幡代小学校で間借り、復興後の山谷小学校は、とんとん葺きの杉皮屋根と馬糞紙の天井のため、秋の台風で屋根天井が抜け、教室内にバケツで授業を受けました。
 父は職業軍人ですが、私が生まれる前に満州、支那事変に従軍し、負傷帰還後に原隊復帰で富山連帯区司令部に内地勤務となり、事務の手伝いをしていた母とめぐり合って結婚し、私が生まれています。
 父はその後郡山歩兵121連隊から陸軍省へ転属し、終戦時は東京防衛軍参謀部付で皇居を守っていたそうです。
 終戦後父は土建業を経て印刷関係薬品会社へ就職し、長男の私を含めた3人兄弟を養い、3人とも大学へ行かせてくれました。

私の戦争体験      武藤清志   76歳

 防空壕に入ったこともなく、兵隊を見たのは疎開先で移動中の部隊だけでした。昭和15年に東京の台東区浅草小島町で生まれましたが18年くらいに祖父の郷里の山梨県の富士吉田に母と兄と3人で疎開し、兄はそこの小学校に転校しましたが私は毎日遊んでいました。時々、東京の実家の祖父のところに上京しましたが、道路には大きな爆弾跡があり夜歩くのに苦労したのを覚えています。1年くらいで茨城の宝積寺の祖母の実家に移りそこで終戦を迎えました。畑からサツマイモを抜いて食べたり田んぼのイナゴを捕まえて炒って食べました。
 父は海軍の主計一兵卒として勤務し外地には行かず最後は旭市で除隊しました。父が横須賀市の海軍に勤務していた時に母と行ったときの電車では途中から窓の外を見ることができなくなりました。きっと、横須賀軍港のそばを走っていたのでしょう。東京の実家は最後の下町の大空襲で見事に焼け、祖父は他の所に引っ越し、終戦後小島町に戻ってみると別な人のバラックが立っていて、区役所が焼けて土地台帳も無く結局は取られてしまいました。
 父の復員後北区赤羽に住みそこで育ちました。祖父は上野の下谷神社の前に引っ越しましたが母と遊びに行くときの上野駅の地下道には浮浪者や浮浪児が両側に寝転んでいてその匂いのすごいのには堪りませんでした。赤羽から上野に行く間の電車には傷痍軍人がアコーデオンを鳴らしながらお金をもらっておりました。
 余談ながらIBMのHPCが韓国のソウルで開催された時に同じ光景を見ました。朝鮮戦争の傷痍軍人だったのでしょう。
 新制小学校の第1期生として入学し、私の担任の先生は師範学校を卒業した22歳でした。

戦争前後の記憶      新田自然  78歳

あの方の声のトーンや終戦忌
 昭和20年8月15日は暑く、晴れていたように思う。近所のおばさんが大事な放送があるので、手を洗えという。ラジオを聴くのにどうして手を洗わねばならないのだろうと思った。国民学校1年生にとってラジオの中身は全く理解されないものだった。ただ陛下の声が高く独特の口調であったことだけ印象に残った。
「これで終わったんよ」
 おばさんは淡々と話した。筋向いのおいさんはサイレンを鳴らした。警戒警報でもないのになぜサイレンかと思った。
 四国の田舎町、国民学校1年生の私にとって戦争の記憶は少ないし恐怖体験もない。昭和20年7月、夏の夜だった、町から12キロ離れた松山に大空襲があったこと、夜空に焼夷弾がばらまかれるように落され、それがとてもきれいだったこと、直後に連れて行かれた松山の町が水浸しで、焼け残った家のあちこちに張り紙がしてあった(たぶん連絡先を書いたものだろう)。その前後に空中戦があり飛行機が撃ち落とされ、残骸を見に行ったこと、そこで拾ってきた機関銃の弾を学校でもてあそんでいた上級生が、暴発に遭って死んだこと、その飛行機のプロペラは木製で不思議に思ったが、だから撃墜されたのは日本の飛行機だったのだろう。アメリカの爆撃機B29の爆音は耳に残っている、わが町の上空を堂々と通過していった。たぶん南方の基地を発った爆撃機は、瀬戸内海を豊後水道から侵入し、そこで東に方向転換し、関西に向かったのだろう。その年の8月、広島に原爆が落とされ、やがて終戦となった。わが町は広島のちょうど向かいに位置しており、原爆の雲を見たという人がいたことも記憶にある。
 こうやって思い出していると、なんだか次々に思い出されてくる。その年の4月、国民学校に入学した時も記憶に残っている。校長先生がうやうやしく黒塗りの書類箱から何やら取り出し読み上げた。たぶん教育勅語だったのだろう。学校で配られた教科書は薄っぺらい紙で綴じられたもので、教科書とは言えない代物で、それくらい物資が不足していたのかと思われる。校庭では行進が行われていたが、たぶん教練だったのだろう、一年生はやらなくてよいと言われた。農繁休暇と言って田植え、稲刈りの時、学校は休みになって、そのぶん夏休みが削られた。商家のものにとっては夏休みのほうがよいのにと思った。
 あのころ遊んだものは何だったか、それが戦争中か終戦後だったか不分明だが、隣の家にはレコードがあったが、それは紙製で、レコード上の紙にうすくセルロイド(?)が塗りつけられていた。レコード針は竹製であった。もっとも蓄音機が壊れていて動かなかったので、円盤投げのようにして遊んだ。コマ回し、めんこ(パッチンといった)竹トンボ、竹馬、缶蹴り、なわとびなどで遊んだ。これは戦後だったかもしれないが、夜祭のアセチレンガスの匂いも懐かしい。紙芝居が自転車でやって来た。「黄金バット」という出し物だった。おじさんは水飴を売っていて、それを買わないで見る子に「お前はただ見だ」と言った。祖母があんな不衛生なものはダメと、絶対お金をくれなかったので、惨めな思いをしながら紙芝居をただ見した。
 学校へは下駄を履いて行った。ほとんどの子供が下駄ばきで、学校では裸足、スリッパや上履きなどは置いていなかった。戦後になってもしばらくは給食などというものはなく、2、3年してふかし芋が出たり、味噌汁が出たように思う。油のいっぱい浮いた味噌汁は美味であった。脱脂粉乳が出たこともあったが、初めて飲む乳製品(?)は飲めなかった。
 麦飯は当たり前で、たまに食べる白ご飯は美味しかった。四国の半農半漁の町は、魚はわりと自由に食べられたが、肉はほとんどなかったので、カレーにはエビ、いりこなどが入っていた。どの家も鶏を飼い、卵はあるにはあったが、貴重品で卵に鉛筆で日付を入れた。芋の粉を丸めたカンコロ餅や蔓も食べた。山へ行けばみかんはあったが当時のみかんは今のように甘くはなかった。火鉢にみかんの皮をくべると芳しい香りがした。
 進駐軍がやって来る日、我が家は全員で山へ松茸狩りに出かけていた。山の上から見た、上陸してくる進駐軍の上陸用舟艇の白い航跡が目に焼き付いている。今からいえば皮肉だが、松茸だけはふんだんに取れ、焼いて食った。米兵は怖いといううわさが流れ、どの家も店を閉じて対応したが、それ程でもないとわかり、一斉に商売を始めた。我が家で一番元気だったのは祖母で、着物や彼らにとって珍しいもの(家具とか食器類?)を物々交換した。大量のチューインガムを積んで着物を交換してくれというのを祖母は首を縦に振らなかった。子供心にどうして応じないのだろうと思った。チョコレートは店に来た米兵に貰ったが、こんなに美味いものがあるのかと思った。
 各家には井戸があり、水道なるものはなかった。竈があって飯は釜で木を燃やして炊いた。トイレは水洗ではなく、トイレットペーパーといえるものは「はながみ」という再生紙で、灰色の紙には文字が残っていたりした。し尿は汲み取り式で、農家の人がくみ取りに来た。提供するお礼に野菜をおいて行った。田んぼにはそれをためる肥溜めなるものがあり、そこに落ちると大変だと脅かされた。田園地帯には夏には蛍が乱舞し、稲が実ると田圃にはイナゴがあふれた。畦にはメダカ、ドジョウ、フナ、ソウギョ、川エビ、などがいっぱいいた。学校までは商店のある街並みから、伊予鉄の踏切を渡り、国鉄のガードをくぐり、田圃の道を通り抜けて通った。
 トラックは木炭車だった。スピードが出ないので、走って行って後ろにぶら下がったりした。自家用車を持っていたのは医院の先生だけで、馬車や荷車、人力車などが運搬に使われた。だから街中は歩く人であふれ、目抜き通りでも堂々と犬が寝そべったりしていた。道路の舗装は目抜き通りだけで、あとはすべて土か砂利の道であった。舗装と言っても穴だらけだった。
 映画館は満員だった。板妻や嵐寛、洋画ではターザンなどであったか、我が家の裏は映画館だったのでもぎりのおばさんにただで入れてもらえたが、常に満員で立ち見が常態だった。まだ二本立てなるものはなかった。
 引揚者がどっと戻ってきた。学校にもその子らが増え、シラミ取りのDDTが撒かれ、男の児たちは丸坊主だったので免れたが、女の子でシラミが出た子ははやされて泣いていた。海人草という回虫用の薬草を飲まされた。引揚者の中にはサラリーマンの子たちがいたりして、文化の違いにショックを受けた。家に遊びに行ったら、数家族全員が一列に並んで寝ているのを見てびっくりした。しかし数年の間に水が引くように消えていったが、なかには町の人となった人もいた。
 本には不自由した。読むものがなかったので、むかしの講談社絵本や、母親が昔読んだ婦人倶楽部などを一生懸命に読んだ。だから中身の漫画など、まだ記憶がある。小学校高学年になると落ち着いてきて、教科書も出そろい、雑誌なども刊行され始めた。「小学一年生」「二年生」などと雑誌は細分化されていった。
 そんなふうに敗戦は体験したけど、四国の田舎町はそれほど厳しい生活を強いられるでもなく、まだみんな元気だった。小学校6年になったころ修学旅行が復活され、高松へ一泊旅行があった。米はまだ配給だったらしく、各自袋に入れて持参した。
 歌はずいぶん変わって新しい時代が来たことを感じた。だがそれは「青い山脈」でも「リンゴの歌」ではなく、近江敏郎の唄った「山小屋の灯」という歌にそれを感じた。
 戦争の経験というテーマで書こうと書き出したが、なんかとりとめもなく思い出すままに出来事などを羅列するに終わってしまった。それも年代別に検証していないので、かなり前後しているものもある。だけど戦争を少しでも知っているかどうか、このわずかな時間差は大きなものとして、心の中に残されたものと思われる。

 我々が体験した戦争とはなんであったか、それが人生にどう影響したか、と思う時、不思議な感慨を覚える。あの頃は全員が必死に生き、明日を願って懸命に努力してきた。だから一人ひとりにドラマがあり、人生について陰影を持って語ることができる。それに比べると我が家の息子たち、孫たちの青春は何と単調な毎日かと思うことがある。
 あんな時代はこりごりで、平和ほど大切なものはなく、決して来てほしいとはでしょうか思わないが、今の若者の日常を見る時、人生の一時期、なにかを必死で体験することも必要だと思ったりする。しかしそれらは与えられた結果であって選択したものではない。しからばどうすれば若者たちに希望を持たせることができるのであろうか。
売り家と唐様で書く三代目
 平和な時代はありがたい。中東で難民となっている人たち、北朝鮮で飢えに苦しんでいる人達などからすると、別世界にいる日本の若者たち、生まれたときから何一つ不自由なものはなく育ってきた。物質という意味では本当に恵まれた環境にある。
 だけど彼らは本当に心身共に恵まれているのだろうか、そう思う時気の毒だと思う時がある。どうすれば希望のある明日が期待できるのであろうか。この恵まれた国の恵まれない日常がある。これはぜいたくな言いぐさなのであろうか。

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