その後お二方から強烈な体験記をいただきました。ここでご紹介させていただきます。

振り返って戦後71年を思う    直井秀夫 83歳

 昭和20年8月15日、正午、真夏の太陽が照り付けるなか全校生徒5百名は身じろぎもせず、遠く内地(日本)からの玉音放送に聞き入りました。日本からの放送は雑音交じりで殆ど聞き取れなかったが、校長先生はじめ、教師の方々の沈痛に満ちた表情と、引きつったものからは重大な事態の発表と思った。
 その後、直ちに全校生徒に即時帰宅を命じられた。普通は静かな町ですが、中国人が群がり、日本負けた、と大きな怒声を浴び、心の中に敗戦を認識したものです。この時家に母、姉(17才)、兄(13才)、小生(12才)、妹〈6才〉、の5人家族で、父は満州国政府、兄(21才、20才)2人は8月9日のソ連軍侵攻に先立ち関東軍に召集されていました。
 さて、私ども一家は昭和15年5月に父の勤務地であった満州国南満州鉄道(満鉄)大石橋機関区があった大石橋市に大連経由渡満しました。此処に敗戦で引揚帰国するまで6年余生活していました。街は他市と同じように、日本人町と、中国人居住区とは画然と区別されており、日本人町には日本人6千人余りが住んでいました。水道も完備し、燃料は石炭でしたがペチカを備えたマンション形式の立派な住居でした。冬は零下20度以下にもなる為窓は二重窓で、地下貯蔵庫もあり一冬過ごせる様に、白菜、ネギ、豚肉1頭分が備へられていました。
 大石橋機関区は大連〜新京(現長春)の中間に位置し、蒸気機関車の水、石炭の補給や、車両の点検修理等の大基地で、東洋一の設備を誇っていました。
 昭和20年8月9日の満州へのソ連軍の侵攻があり,大石橋でも著しく治安が悪化、掠奪、暴行、が多発しました。女性は髪を丸刈りにし男性風格に変え、密かな生活を余儀なくされました。
 ソ連の進駐は中国政府との協定で、年末、遅くとも21年春には満州から撤退となっておりました。この為ソ連は連京線(上記鉄道動脈)を使って連日発電機資材,工場機械類、自転車等ありとあらゆるものを大連港宛鉄道輸送するしまつで、日本が設置した満州の富の強奪をし続けたものです。また、ソ連兵は時計が珍しく両腕に鈴なりに嵌めて喜んでいる様子を今でも思い出します。独ソ戦で国力は疲弊し消費材等あらゆる物が不足し、侵攻時の軍用車両、自動小銃も全てUSAであったのを記憶しています。
 昭和20年暮れから翌春にかけてソ連軍の撤退後は、中国国府軍(蒋介石軍)が入場、まもなく八路軍(後の毛沢東中共軍)との激しい内戦が繰り広げられました。日本人官憲の逮捕・処刑、又は中国両軍による市街戦等でも多くの日本居住民の犠牲者を出しました。従いまして、日本人居住民の日常生活にも大きな影響があり、食糧の確保、現金収入に大変苦労を致しました。
 国府・共産両軍の戦闘の合間を利用して中国街に食糧調達に出かけ、狙撃され危うく命拾いしたことがありました。日常の生活を守る為日本人の売り食い生活も始まり、街角で衣類、寝具、貴重品を売り立て現金収入を図りました。子供たちも家計の足しに饅頭や煎餅をミカン箱を改装し紐を付けて首から下げてにわか売り子にもなりました。特に満州は冬が厳しくどう過ごすかが一番の問題で後先を考えずに目の前の生活保全に必死でした。この冬一冬を越せば日本への帰国が適うとの希望丈が全員の願いでもありました。

 茲で少し満州での生活を振り返ってみたい。
 学校教育は日本人学校、中国人学校と全く別組織で行われており、私共日本人学校は街の中心部の一等地にあり、古く明治末に遡り敗戦時までに三十九回生を数えた。戦時中の教員は実に厳しく、常に日本人としての矜持を持ち正道を歩めと指導を受けた。また、スポーツも盛んで特に寒冷地であり、校庭に冬はスケートリンクを作り、スピードスケート、フイギュア、アイスホッケー等大変盛んでありました。心身の鍛錬についてはそれは厳しいものがあり、食糧不足は内地程ではなく、学業を放棄しての勤労奉仕には至っていなかった。
 中国人との共存も良好で、敗戦後暴動騒ぎは皆無であった。これは、北満の中国人の土地を日本人の開拓団が収奪入植した事情とは異なるものがありました。尤も五族協和・王道楽土の満州建国の理念が受け入れられたことでなく、表面、面従腹背していたものと思います。
 ソ連軍の昭和21年春の撤退に伴う国・共両軍による内戦は激化の一方で、日本人居留民への被害は拡大の様相を呈するに及び、米国の仲介で両陣営一時休戦の協定が成立した。昭和21年7月、漸く引揚げが決定され葫蘆島(コロトウ)から米国LST(戦時標準船)に乗船、帰国の途に就きました。敗戦から1年余りではありましたが、戦勝国民(支配者)から敗戦国民となり下った環境の激変は、中々筆舌には盡し難いものがあります。然し、考えてみますと、数多くの犠牲者を出した内戦、引揚無蓋貨物車での移動、等最悪条件の重なる状態で、無事故国日本の地を踏むことが出来たことを神に感謝したいと思います。
 やはり、引揚の中心業務を担ったのはアメリカであり、中国大陸、南方諸島からの兵士、居留民の移動を終了させ、満州居留民160万人とも称される日本人の引揚に尽力された事に感謝するものです。(敗戦時人口7200万人、在外邦人660万人)
 玄界灘を超え、紺碧の青い海、緑滴る島博多港に着いたのは昭和21年7月の末頃でした。LSTに乗船して来た邦人も上甲板に群がり大歓声を挙げ帰国に歓喜していました。上陸時にアメリカ兵からDDTの真っ白い粉の散布を受け漸く日本の土地を踏みしめる事が出来ました。
 又、博多港では多くの婦人会の方々に出迎えて頂き湯茶の接待をして下さり同朋の暖かい心に引揚者の顔にも安堵の色が浮んでいました。
 博多駅から愈々落ち着く先の栃木県宇都宮へ引揚列車で向いました。駅頭では運命共同体で共に満州で働き、学び、遊んだ友人知人と涙の別れもありました。夫々将来の再会を約したものでしたが、多くの方々が今生の別れ、と涙していた別離もありました。
 日本がアメリカの空爆で焼土と化している、特に広島、長崎は1発の原子爆弾で都市が消滅しているとの情報は耳に入っていた。帰国列車で北上、先ず広島駅到着時の広島市一面の焼野原の惨状を見て、原子爆弾の威力に恐怖を感じるとともに、戦争のあまりにも惨たらしい様に立ち尽くす始末でした。何と言う無謀な戦争を仕掛けたものか。
 東京駅から東北線に上野駅から乗り換えるまでの、名古屋駅、静岡駅、鎌田駅、東京駅から眺めた各都市も一様に焼土となり余りにもの戦禍に言葉もなかった。東京駅ドームも空襲で破壊され星空が見え首都東京の社会施設も根こそぎ攻撃されていました。誠に暗澹たる気持ちで帰って来た故郷宇都宮市も、敗戦の年の7月に大空襲を受けて全て破壊し尽され、アメリカ軍の攻撃の凄まじさに声もなかった。
 家族8人無事に故郷に帰って来たものの、落着き先探しで大変苦労しましたが、母の実家の隠居家が空いていることが分かり,そこに転がり込むことになった次第です。
 こうして、戦後の困苦欠乏時代に入りましたが、実家の兄、兄嫁、隣近所の方々の暖かい支援で生計が成り立ちました。昭和21年の物資欠乏の時代に自分の家族を守るのに精一杯の時、裸一貫、職無し、家無し、着物無しの一家8人を長きに亘り支えて頂いた恩顧、恩愛は終生忘れ得ぬものとして今日に至るも心に深く刻みつけて居ります。私は、この時の人の情けを心底持ち続け自らの行動指針として持ち続けて来た心算で、当時御世話になりました方々に報いる決心をしたものです。
 大変な窮乏生活の中でしたが、母親の思いやりを得て新制高校(商業)に昭和24年4月入学、3年間高校生活を満喫、縁あって昭和27年3月、茨城の電機メーカーに入社。工場で5年間生産管理実務経験の後、同本社へ転勤、営業を担当し、爾来50年余りを主に東京、大阪で生活しました。
 東中新宿町会とは、昭和39年に当地に社宅を建築入居して転居して参りました。祖母(妻の母)、子供2人、との5人家族で以来50年以上に亘り皆さま方に御世話になり過ごして参りました。
 平和は誠に尊いものです。私の少年期は申し上げました様に戦争に明け暮れた日々で、且、教育も軍事教育で終始し、又、侵略した地で他民族を思いやる事もなく生活したことを無念に思う。引揚敗戦の惨の経験は、子孫に教育しても、絶対に体現させてはならないと思います。
 敗戦で仲の良かった友人、知人、全ての人を失い帰国後一からの構築は、誠に寂しく辛いものでした。戦後71年、360万人に及ぶ戦死、戦没された尊い人命に誓って、この尊い平和は全国民で守りぬかねばならない国是と思います。

昭和20年8月15日は父の命日?    大門美代松 79歳

 敗戦後、海外から引揚者、傷痍軍人が次々と日本へ故郷へと帰ってきた。今から考えてみれば人々の身なりは薄汚くヨレヨレで交通機関も混雑を極めていた。
 我が家では昭和16年6月に出征してどこにいるかも知らされていない父の帰宅を今日か明日かとひたすら待ちわびていた。
 昭和22年に一葉のおくやみのハガキが母に届いた。父の死の知らせであった。死亡日は不明なので今後のことを考えて一応昭和20年8月15日として処理されているということであった。差出人は同じ中隊の兵隊で階級は伍長でマラリアと栄養失調ながらなんとか生還されたという。召集で出征した父の階級は曹長で高射砲隊とのことだった。
 驚いた母は帰還兵宅を訪ねるとともに町役場を通じて県庁に問い合わせた。すると数日してから県庁から戦死広報が届けられた。まるで催促したような形であった。通知を受け母がわざわざ県庁へ出向き、首から恭々しく白い布に包まれた遺骨箱を下げた帰宅した。受け取った箱を開けてみると中味は木片と石1個であった。死亡日は昭和20年8月15日、戦死地はソロモン諸島ブーゲンビル島エレベンタマイカと記されていた。
 私は東京オリンピックの年、昭和39年4月に就職した。数年経った時、耳よりな情報が入って来た。パプアニューギニア、ソロモン諸島方面への戦没者遺骨収集団員募集があるらしい。調べてみると京都の花園大学学長山田無文師主導の戦没者遺骨収集団で政府主催ではない。遺骨収集と慰霊祭を過去何年か行っているという。花園大学は臨済宗妙心寺派で山田無文師は戦時中、学生を戦場へと送り出した責任を感じていた。この戦争は聖なる戦争であると説いて来たと言う。
 遺骨収集団の費用の一部は山田無文師の書や墨画の売却金と競輪を主催している日本自転車振興会からの助成金で賄うとの事であった。それでも自己負担金は数十万を要した。遺骨収集団の結団式は九段下の九段会館で行い参加者全員が1泊した。遺骨収集団は3班から構成された。私の所属はソロモン班。行程は羽田、香港、パプアニューギニア、ポートモレスビー、ブカ島、ブーゲンビル島、ガダルカナル島、ニューブリテン島ラバウル、ポートモレスビー、マニラ・モンテンルパを訪問する。遺骨収集と慰霊祭を各地で行い地元住民とも交流するという計画であった。帰国は羽田国際空港で、まだ成田空港はなかった。
 3班のリーダーは鈴木宗忠師、静岡県三島市沢地にある円通山龍澤寺住職だった。龍澤寺は白陰禅師ゆかりの名刹。檀家は殆ど持たず托鉢と寺領の田畑からの収穫物での自給自足で賄っている。外国からの研修生も受け入れている研修、修行道場の形態であった。坐禅を接心と言っていた。我ら3班は熊谷市と塩原からの2名の僧侶、男性6名女性3名の遺族。新宿区から付添1名同行医師1名、京都新聞カメラマン1名の総勢15名。
 羽田を出発して香港で1泊した。ポートモレスビーで1班、2班と別れた。まずブカ島へ行き遺骨収集と慰霊祭を行った。遺骨収集では地元民が協力してくれた。慰霊祭では四角の柱を立てる。正面には大圓鏡智と書かれ他の面にも妙観察智、情所作智などと書かれていた記憶がする。この柱は高さ4mほどもあり日本から何本も持参した。抹茶による献茶を行い花、米、酒、タバコ、水を供え、僧侶による読経を捧げる。追悼文を関係遺族が読み焼香する。その後全員で般若心経を唱和する。その後地元民との交流を行う。今後の慰霊地の管理保全を依頼する。
 次は海上で亡くなった兵隊、航空機で亡くなった兵隊。遺骨の収集はできないので船をチャーターして海上から長さ50cm程の卒塔婆を投下する。卒塔婆は前日までに戦没者名と法名戒名を書いておく。あらかじめ全国から依頼された方々の分も用意して慰霊する。航空機の場合は窓を開け花束を投下する。花はあっという間に飛んで行ってしまった。飛行機の窓を開けるのは大変危険な行為である事を後から知った。DC3機だった。
 ブーゲンビル島はかなり大きな島であった。農園を経営している英国人ピーター氏に大変お世話になり地元民の記憶していた遺骨のある場所を何か所も訪ねた。私の目指すブーゲンビル島エレベンタマイカなる場所、地名はなかった。ブインの飛行場沖合5kmにエレベンタ島があると地元民に教えてもらった。しかし日程や交通手段の事もありエレベンタ島へは行けなかった。帰国後生還されたH氏に状況を報告すると、H氏も転戦して行った時は詳細な説明はなかったので良く判らないという事だった。
 ブイン飛行場近くで父のための慰霊祭をしてもらった。涙が溢れ止まらなかった。しかも15分程スコールに見舞われた。島内には爆弾投下による擂針状の直径40m窪みが点々とあった。ジャングルの小道を行くと山本五十六のお墓があった。車を降りて10分程歩くという。誰ひとり墓参しなかった。ジャングルの中は薄暗く足許は勿論、木の上からもヒルが襲ってくる。道もハッキリしない。ジャングルの木は高さ20mくらいあった。
 ブインから飛行機でガダルカナル島ホニアラへ着いた。日本軍と連合軍との激戦地である。ムカデ高地のオースチン山で慰霊祭を行った。連合軍の艦砲射撃が日本軍の背後に行われ、ムカデ高地から徐々に日本軍がくだって来た所を待ち構えていた連合軍に狙い撃ちされた。ガイドは「Japanese soldier 3000 died」と事もなげに説明した。ガ島での死闘はホニアラの飛行場の争奪だったと言う。現在の飛行場はアンダーソンと命名されていた。傍に高射砲があった。自動で向きが変えられる高射砲であった。ブーゲンビル島で見た日本軍の高射砲は手動で一門操作する為に15人の兵隊が必要だったらしい。見張り、装填、弾運び、射手などなど。敵機が襲来すると兵隊の半分は腰を抜かして動けなかったと言う。
 日本軍がガダルカナル島から撤退するときに奇跡が起こった。南西のエスぺランス岬である。ホニアラ空港の近くには市街地があり漁港もある。遠洋漁業の日本漁船が多く停泊していた。エスぺランス岬へ車を走らせると海岸沿いに17軍の師団跡があった。さらに西へ進むとタサファロンガ海岸に鬼怒川丸の赤くさびた残骸があった。制空権、制海権がもはやなく海岸めがけて突っ込んだ輸送船である。この海峡は軍艦が多く沈んでいて船舶のコンパスも機能しないアイアンキャナルと言われていた。
 連合軍の輸送船はといえば一艘丸ごとチリ紙を運んだ船もあったという。物量違いである。更に西へ進むとマツマイモ畑の周辺から遺骨や日本の硬貨が出てきた。ガダルカナル島へ派遣された軍隊は仙台の第2師団が多いという。明治維新の時の朝敵であった。ここにも歴史があった。エスぺランス岬への道すがら民家の軒下にバナナが並べてあった。真青なバナナを日ごと収穫し並べて置き1週間ほど経つと黄色くなり食べ頃となる。最西端のエスぺランス岬より闇夜に乗じて約4千人の日本軍が無傷で脱出したという事だ。
 ニューブリテン島ラバウルへ来た。「さらばラバウルよまた来るまでは」と歌われた所である。ラバウル空港の付近では日本軍の戦闘機、爆撃機が朽ち果てていた。市街地には日本軍の司令部跡や防空壕がそのまま残っていた。近郷には温泉が何か所もあった。海岸の洞窟には200人乗大阪発動機エンジン装備の船が4艘隠されていた。小高い丘の上へ行くと大砲があった。何と大正時代製大阪兵器廠と銘板が読めた。夕刻になり宿舎近くの飲み屋へ行ってみた。若い男女は屈託なくいろいろと話をしてくれた。ビールのつまみにココナツを食べていた。ココナツとは椰子のこと。実の内部の乳のような液は稔ると白いラードのようになる。これを剥がして食べるのである。
 最後に訪れた所がフィリッピン、モンテンルパ刑務所である。マニラ市よりバスでモンテンルパへ向かった。舗装道路がいきなり未舗装の砂利道となった。舗装道路は日本からの戦後賠償金によって整備された道路である。
 モンテンルパ刑務所は敗戦後に日本軍の兵隊がB級C級の戦争犯罪人とされ多くの兵隊が処刑された。ガイドによればハンギングと指さすのは木の枝だった。犯罪人という事で墓はなく埋葬された所に石があるだけ、名前も判らない。
 妻子を日本軍に殺害されたフィリッピンの大統領により恩しゅうを超えて恩赦が行われ、数多くの死刑判決を受けたBC級戦犯はじめ多くの旧軍人が日本の地を踏むことが出来た。
 我々の収集した遺骨はそれぞれ現地で荼毘に付した。帰国後は千鳥ヶ淵の無名戦没者の霊園に厚生省を通じて納骨された。
 私は4人兄弟の3番目、4夫婦とも生存している。父の倍以上生きた。父の加護かも。

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