今月は久方ぶりの旅行記です。
 この旅行記は4月に書いたものですが、「私の戦争体験」に思いがけず多くの方がご投稿くださったためそちらを優先して掲載し、半年遅れの掲載となってしまいました。一部手を入れました。

軍艦島とハウステンボスと姫路城を巡る旅


 平成28年4月7日から10日まで阪急交通社のゆっくり出発する「阪九フェリー新造船スイートルーム利用 煌めくハウステンボスと軍艦島・姫路城 4日間」というツアーに妻と参加しました。ツアーには通常1つのテーマや目的などが感じられるものですが、今回のツアーは3つの話題のところをつまみ食いするようなちょっと珍しいツアーでした。
 なお、日記風の旅行記は4月の「手賀沼通信ブログ」に載せてあります。

参考資料:・Wikipediaの各サイト

1.「ついていた」旅となった
 今回の旅行はラッキーというか「つき」に恵まれました。
 1つ目の「つき」は旅行が成立したことです。悪天候で危うく旅行が出来なくなる所でした。
 最近ツアーを選ぶときは、家から遠くて乗るまでが面倒な航空機利用を避けて、新幹線を利用するものにしています。できれば家から近くて気楽に乗れる上野駅発のツアーがベストです。ところが今回は航空機利用となっていました。
 航空機利用が旅行が成立するかどうかを悩ませたのです。4月7日は低気圧が日本上空を通過したため、全国的に雨風が強い日となりました。特に九州地方は午前中大荒れ、JAL609便が向かう長崎は瞬間最大風速30メートルに近い風が吹いたとのことです。天気予報は最悪でした。
 朝6時過ぎにネットで「JALのホームページを検索しました。すると午前中の2便は欠航になっていましたが、12時30分発のJAL609便は何のコメントもついていませんでした。そこで阪急交通社の出発当日の連絡先に電話しました。
「JAL609便は欠航ではないので予定通りお出で下さい」との返事でした。
 何とも割り切れない気持ちを抱えながら、少し早めに家を出て羽田空港に着いたところ、添乗員から「JAL609便は飛びますが、現地の天候次第で福岡空港か中部国際空港に降りるかもしれません。今日中に長崎に行けないときはツアーは中止になるでしょう」と言われました。
 出発後、機長から「予定通り長崎に着陸します」とのアナウンスがあり、着陸の前にかなり揺れてソフトランディングとはいきませんでしたが、無事長崎空港に到着しました。
 2つ目の「つき」は軍艦島に上陸できたことです。
 世界遺産の軍艦島には上陸するにあたって次のような厳しい基準が定められています。
 「風速が5mを超えるとき、波高が0.5mを超えるとき、視程が500m以下の時は上陸できません。また、見学者が安全に下船できないと船長が判断するときも上陸できません。」
 4月8日は前日の時化の影響が残っており、多少うねりがありました。無事出航したものの上陸できるかはいってみなければわかりません。別便は上陸できず島の周りをまわって引き返したそうです。
 私たちは幸運にも上陸することが出来ました。軍艦島には他の島にあるような立派な桟橋や船着場はありません。直接島の岸壁に船をつけて、岸壁のくぼみに上陸するのです。乗組員に抱えられて降りることになりました。
 3つ目の「つき」は初めてのハウステンボスを効率的に見物できたことです。
 ハウステンボスは私も妻も初めてです。4月8日の午後4時から見物をスタートしましたが、広い場内どこを歩いていいかわからず、フロントに相談して場内を巡るバスに乗りウェルカムゲートに行きました。添乗員が何人かの人を案内していたのでついていきましたが、ペースが合わないので途中で離れて妻と2人で別行動をとりました。
 何か所か見物していると、突然1人になった添乗員から声を掛けられました。そこから専属のガイドのようなかたちでハウステンボスの見どころを案内してくれました。
 最後にくたびれて歩いていたところに、園内を走るカートタクシーが偶然通りかかり楽にホテルまで帰ることが出来ました。
 4つ目の「つき」は姫路城でお花見ができたことです。
 4日目は改修後の姫路城の観光でした。九州地方は7日の暴風雨のため、桜の花はほとんど散っていました。
 ところが姫路城では散り始めた見事な桜にお目にかかることが出来たのです。白いお城と桜の花が見事な風景を見せてくれました。

 私たちの旅行の1週間後に熊本地震が起こりました。
 熊本地震は前震が4月14日、本震が16日でした。旅行の日程が1週間ずれていたらまともに重なっていました。今回は熊本には行きませんでしたが、7日に泊まったのは熊本から有明海を隔てたお隣の島原半島の雲仙でした。その後の九州の状況を考えたら、おそらく旅行を普通に続けることはできなかったと思います。
 熊本地震では多くの方が亡くなり、また多くの方が被災されました。まだ多くの方が仮設住宅で過ごされているようです。1日も早い復興をお祈りいたします。
 熊本城には2年前の春に行っています。あの美しい名城が無残な姿になったのも残念でなりません。
 25年前に雲仙普賢岳が噴火した時も似たような経験をしました。ツアーで5月15日に島原のホテルに泊まっており、5月26日に火砕流が発生、1人死亡、31人行方不明となっています。わずか11日違いでした。
 偶然ではありますが、何か九州旅行と自然災害の不思議な因縁を感じています。

2.身の引き締まる思いの軍艦島
 軍艦島は俗称で、正式名称は端島です。長崎半島から西に約4.5キロにあり、東西約160m、南北約480m、周囲約1200mという小さな海底炭鉱の島です。岸壁が島全体を囲い、高層鉄筋アパートが立ち並ぶその外観が軍艦「土佐」に似ていることから「軍艦島」と呼ばれるようになりました。最初は草木のない水成岩の瀬にすぎなかった小さな島は、採炭技術の発達とともに、周りを6回にわたって埋め立てられました。
 1891(明治24)年三菱合資会社が石炭を掘り始めて、1974(昭和49)年閉山するまで、約1570万トンの石炭を採掘しました。
 最盛期の1960(昭和35)年には、人口が約5300人、人口密度は東京都の約9倍にもなりました。1916(大正5)年には日本最古の鉄筋コンクリートの高層アパートが建てられました。島には高層アパートのほか、幼稚園、小中学校、プール、店舗、病院、神社、寺院、郵便局、理髪店、美容院、共同浴場、パチンコ屋、雀荘、社交場など生活に必要な施設が整っていました。
 閉山後は無人島となり、長い眠りについていましたが、2015年「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」の構成資産の一つとして世界文化遺産に登録されました。
 閉山後は立ち入りが禁止されていましたが、2009年4月以降、島の南部の見学広場、見学通路に限り立ち入ることが出来るようになりました。
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 私たちは高島海上交通のブラックダイアモンド号による軍艦島上陸クルーズに参加しました。200人乗りの快速艇です。40分ほどで高島に到着、軍艦島の模型を前にクルーズ船のガイドから島の概要について解説がありました。軍艦島にはトイレはありません。ここでトイレを済まし、高島石炭資料館に立ち寄って軍艦島に向かいました。
 軍艦島で見た光景はショッキングでした。廃墟の島です。私たちが歩けるのは島のほんの一部、炭鉱の施設のあったところです。人々が生活していたのは島の反対側で立ち入りはもちろん見ることもできませんでした。危険なためです。島を離れた後、船が島の反対側に回り込んで、生活した跡を見せてくれました。人がいなくなり、だれも建物や施設の保全をしなくなるとこんなにも荒れるものかということが判りました。
 ガイドによると島を訪れる観光客の中にはかつて島で暮らした人も少なくないそうですが、その人たちは決して島の写真を撮らないそうです。おそらく昔の生活の場と現状の光景があまりにも違いすぎるからではないでしょうか。
 台風や冬の強風による波は12メートルの護岸を超えて建物を襲います。どんどん破壊は進みます。世界
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遺産となっても、建物の保護がどこまでできるか、国や県や市は頭が痛いのではないでしょうか。
 ガイドの最後の説明が心に残りました。写真にある階段は坑夫が仕事に行くとき登る階段です。 そこを通った先から、手すりだけのエレベーターに乗って600メートル下り、坑道をトロッコで2キロ運ばれ、降りたところが採掘現場で、気温30度、湿度95%の過酷な条件だったそうです。炭塵爆発など生命の危険もありました。坑夫は階段を上りたくない、でも登って行ったのは家族のためだったそうです。
 考えさせられたことの多い軍艦島クルーズでした。

3.オランダ村に素晴らしいイルミネーションがあった
 ハウステンボスの前身は1983年にオープンした長崎オランダ村で、創業者は長崎県西彼町役場に勤めていた神近義邦氏です。その後、長崎県が工業団地として針尾島に造成した120万平米の土地を購入し、1992年3月にハウステンボスとしてオープンしました。
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 ハウステンボスはオランダ語で「森の家」という意味です。オランダ400年の国づくりに学びながら、「人と自然が共存する新しい街」「自然の息づかいを肌で感じることのできる新しい空間」を目指してつくられました。オランダの街を再現するため、施設や街の紋章までもがオランダ政府の協力や助言のもとにオランダに実在する建物を忠実に再現する方法で造られており、建物に付属の石像もオランダの文化財修復家が製作に当たっています。
 道に敷いてある舗装用のレンガは約1000万個、建物に貼ってあるレンガは3000万〜4000万枚で、オランダで焼いて運んでこられました。
 ハウステンボスは1992年3月華々しくオープンしました。日本全国からも「自然と環境との関わり」という新しいテーマパークとして注目を集めました。
 ハウステンボスは1996年度には入場者380万人を記録しましたが、スタート時期がバブル経済崩壊直後であったため入場者が次第に減少、当初予算の2倍の2千数百億円もの初期投資が重荷になり、興銀に債権放棄を依頼して神近義邦氏は社長を辞任しました。しかし興銀主導の経営になってもうまくいかず、2003年には会社更生法の適用を申請して破たんに追い込まれました。

 ところが2010年エイチ・アイ・エスの澤田秀雄氏が社長に就任し、開業以来赤字だったハウステンボスを社長交代から1年で黒字にしました。澤田社長は人を集めるいろいろな工夫をし、設備やイベントを増やしました。
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10月31日から4月18日までは1300万個のLED電球を使った「光の王国」が呼び物のイベントです。
 今回のツアーをこの時期に決めたのは妻ですが、その理由はハウステンボスのイルミネーションイベント「光の王国」が見られる最後のツアーだったことです。「光の王国」は日没から始まり閉園時まで続きます。
 園内のイタリア料理店で食事をして外に出ると、一面光の海になっていました。東洋一のイルミネーションだそうです。中でも高さ66メートルの光の滝が圧巻でした。妻は今まで見たイルミネーションの中で最もきれいと感激していました。

4.姫路城と桜
 このツアーの最後の目的は平成の大修理を終えた世界遺産の姫路城を見物することでした。
 姫路城に来るのは3度目です。1度目は学生時代、昭和の大修理中でした。昭和の大修理は天守を解体して心柱の修理などをしています。姫路城は1993年12月法隆寺とともに日本最初の世界文化遺産に登録されました。
 2度目は2006年4月27日で山陰地方を巡るツアーの最後が姫路城でした。この時初めて天守に登りました。
 そして2009年6月から2015年3月まで平成の大修理が行われました。大天守の白漆喰の塗り替え・瓦の葺き替え・耐震補強を重点とした補修工事が進められました。黒ずんでいた漆喰が真っ白になり文字通り白鷺城になりました。工事が完了した直後は白すぎるなどと言われたそうです。
 3度目の今回は8時30分から13時までゆっくりと見物することになりました。姫路城は大修理が終わり天守に登れるようになってから、観光客が増え、日によっては入場までに待たされるようになったようです。開門は通常9時ですが、当日は8時半でしたので、8時過ぎに駐車場についた私たちは開門と同時に入ることが出来ました。
 姫路城には約1000本のソメイヨシノやシダレザクラがあります。満開の桜が散り始め、美しくよみがえった天守をより美しく見せていました。お城と桜というと青森県の弘前城の桜が有名ですが、姫路城も「桜の名所100選」に入っています。天守閣からは新しくなった漆喰や屋根瓦が目に飛び込んできました。
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