From: Yoshiaki Nitta
To: 手賀沼通信読者の皆様
日付: 2017年1月1日 8:46

あけましておめでとうございます

今年も手賀沼通信をよろしくお願いいたします。

我孫子市の手賀大橋の下からから見た初日の出の写真をお送りいたします。(メールをテキストでやり取りしている方にはご覧いただけないかもしれません)
今年も素晴らしい初日の出を見ることが出来ました。

 
ここには9年前の2008年からほぼ毎年出かけています。
我が家から歩いて10分足らずの場所で、手賀沼の向こうから昇る太陽が美しく見えるため、我孫子や柏などから大勢の人が集まります。
ところがいつもの通り日の出15分前に橋についたのですが、今までで最高の人出で橋の上は超満員、割り込む余地がありませんでした。
恐らくお天気が無風快晴だったうえ、この場所がこの近くでは日の出の最高のビューポイントという事が知れ渡ったせいかもしれません。
そのため橋の下で日の出を拝むことになってしまいました。
 
今年も飲食店の屋台が出て、和太鼓などのショーがありました。

無料でお汁粉を配っていましたが、長蛇の列でした。

世界や日本で何かと騒がしい世の中ですが、この初日の出のように平和で穏やかな 日々が過ごせるよう願っております。

手賀沼通信第226号をお送りいたします。



 あけましておめでとうございます

 山好きの人たちの中で、ここ数年日本百名山の静かなブームが続いています。
 今から50年くらい前の私の青年時代には、若い人たちが山に押しかけました。その後だんだんと若者が山に行かなくなり、山は中高年のものとなっていました。ところが最近になり再び若者が山に戻ってきています。富士山が世界遺産に登録されたり、山ガールや外国人が日本の山の良さや登山の楽しみを見つけたこともあります。
 私の山の時代に比べると、山小屋や温泉などの山の宿泊施設や登山道やロープウェイなどが整備されました。登山の用具が改善されました。昔は重かった木綿のザックやテントなどが軽くなり、ストックなどが考案されました。山の情報も手軽に手に入るようになりました。これらも山登りの楽しさを後押ししています。
 テレビ番組の「にっぽん百名山」や「グレートトラバース」なども放送されました。
 私も以前山に入れ込んだ時期がありました。20代の5年間ほどです。その後は思い出したように時々山に登りました。百名山は全く意識していませんでした。百名山がブームになったことと絡めて私と百名山をまとめてみたいと考えました。

 ここでクイズです。写真を5枚挿入しました。山の名前をあててください。回答は最後に出ています。

参考資料:「日本百名山」 深田久弥 新潮社
     HP「Wikipedia」

私と日本百名山〜山登りの思い出

1.「日本百名山」を読む
2015年12月に深田久弥の「日本百名山」を読みました。趣味だったと過去形になっているのは、今月末で80歳になる今はもう高山に登れないからです。
百名山については、NHKのBSプレミアムの番組「にっぽん百名山」を見てよく知っていましたが、そのもとになった著作は読んでいませんでした。
槍ヶ岳  深田久弥氏は1903年(明治36年)に石川県に生まれています。中学生の時、ふるさとの白山に登り、それ以後1971年茅が岳に登山中山頂直下で脳卒中でなくなるまで、山を愛し、山について書き残す人生でした。余談ですが私も1961年に最初に勤めた生命保険会社のハイキング部の新人歓迎会で茅が岳に登っています。今では茅が岳の終焉の地に「深田久弥先生終焉の地」の石碑が立っているそうです。
 「日本百名山」の後記に深田久弥氏は次のように書いています。
 「わが国の目ぼしい山にすべて登り、その中から百名山を選んでみようと思いついたのは、戦争前のことであった。その頃ある山岳雑誌に『日本百名山』と題して、二十五座ぐらいまで連載したが、雑誌が廃刊になったのでそれきりでやんだ。しかし私は山に関しては執念深いから、戦後再び志を継いで、還暦の年にそれを完成した。
 本書にあげた百の名山は、私はすべてその頂上に立った。百を選ぶ以上、その数倍の山に登ってみなければならない。どのくらいの山に登ったか数えてみたことはないが、私の山登りは少年時代に始まって今日にいたるまでほとんど絶えたことがないから、多くの山を知っている点では自信がある。」
 深田久弥氏は選定について3つの基準をおいています。
 「その第一は山の品格である。誰が見ても立派な山だと感嘆するものでなければならない。高さでは合格しても、凡常な山は採らない。厳しさか強さや美しさか、何か人を打ってくるもののない山は採らない。人間にも人品の高下があるように、山にもそれがある。人格ならぬ山格のある山でなければならない。
 第二に私は山の歴史を尊重する。昔から人間と深いかかわりを持った山を除外するわけにはいかない。人々が朝夕仰いで敬い、その頂に祠をまつるような山は、おのずから名山の資格を持っている。山霊がこもっている。ただ近年の異常な観光業の発達は、古い謂われのある名門の山を通俗化して、もはや山霊も済みどころがなくなっている。そういう山を選ぶわけにはいかない。
 第三は個性のある山である。個性の顕著なものが注目されるのは芸術作品と同様である。その形体であれ、現象であれ、ないしは伝統であれ、他に無く、その山だけが備えている独自なもの、それを私は尊重する。どこにでもある平凡な山は採らない。もちろんすべての山は一様でなく、それぞれの特徴は持っているが、その中で強烈な個性が私を引くのである。
 付加的条件として、大よそ千五百メートル以上という線を引いた。山高きをもって尊しとせずだが、ある程 石鎚山 度の高さがなくては、私の指す山のカテゴリーには入らない。例えば、越後の弥彦山や、京都の比叡山や、豊後の英彦山など、昔から聞こえた名山に違いないが、あまりに背が低すぎる。例外はある。筑波山と開聞岳。なぜそれを選んだかは、その山の項に書いてある。」
 一つ一つの山について書かれた文章を読むと、深田氏が苦労して山に登り、各方面にわたって文献を調べ、いかに深く研究されたかがよくわかります。特に若いときに登った山は、今のように登山道や山小屋が整備されていず、道なき道をやぶをかき分けて登っていたご苦労が胸に迫ってきました。

2.私の登った百名山
 私が登った百名山は34座です。ほとんどの山は頂上まで登りましたが、大学時代学校の山の家から軽い気もちで登り始め、時間不足となってあと少しで引き返した妙高山は返す返すも残念でした。山の何かを知る前のことでした。
 また、八甲田山、蔵王山、那須岳、乗鞍岳、阿蘇山は観光バスやロープウェイで頂上近くまで行きましたが、登ったとは言えません。
 それらも苦し紛れに34座の中に入れております。
 私が初めて登った百名山はふるさと愛媛県の石鎚山です。中学生の時、父に連れられて登りました。一の鎖、二の鎖、三の鎖のあるスリルに富んだ山でした。西日本一の高山です。厳密に言うと登ったのは弥山という頂上です。そこより約20メートル高い天狗岳が最高峰なのですが、そこに行くには危険な痩せ尾根を通らねばならず、初めて登る中学生には無理でした。
 2番目の百名山は大学時代に友人と2人で行った富士山です。今ほどの行列ではありませんでしたが、山小屋が少なかったせいか、8合目の小屋では混雑のため仰向けには寝られず、体を横向きにして寝たのを覚えています。しかし山頂から初めてご来光を仰いだ感動はそれまでの苦しさを忘れさせてくれました。しかも日本一高い富士山のご来光でした。

3.生命保険会社のハイキング部時代の百名山登山
 大学を出て生命保険会社に就職しました。先輩から誘われて会社のハイキング部に入りました。女性が多かったのでクライミングや冬山をやる山岳部はなく、ハイキング部は冬にはスキー部に変身しました。その会社に在籍した4年半は、仕事の思い出よりハイキング部の思い出が強烈に残っています。
 4年半の間に、北アルプスでは穂高岳、鷲羽岳、剣岳、立山、中央アルプスでは木曾駒ヶ岳、南アルプスでは鳳凰山、北岳、間ノ岳などに登りました。
 当時の山行は新宿駅から土曜日の夜行列車に乗るのが普通でした。それも座席指定の特急ではなく、普通列車か準急、まれに急行に乗りました。4人掛けのボックス席でしたが、その下に新聞紙を敷いてもぐりこんで横になって寝ることもありました。4等寝台と称して、その方が楽だと公言したものでした。
男体山  アルプスの洗礼は穂高岳からでした。入社翌年、男性5人女性6人で、上高地から涸沢を経て、北穂高岳、奥穂高岳、前穂高岳に登り、上高地に戻るコースを経験しました。
 中央アルプスに行ったときは、夜行列車で出発し、木曾駒ヶ岳と宝剣岳に登り、夜行列車で早朝に新宿駅に戻ってきて、急いで帰宅してその日平気な顔で会社に行ったこともありました。若いからできたことでしょう。
 剣岳、立山に登ったときは雨で1日山小屋に足止めを食いました。残念ながら小屋の名前は忘れました。学生時代山岳部の経験もない素人が、山の経験のある先輩や後輩に助けられたとはいえ、剣岳という難しい山に行ったのもやはり若さだったのでしょう。女性の初心者も一緒でした。
 尾瀬に最初に行ったときは会社からバスを仕立てていきました。当時はどこの生命保険会社も高卒の女性社員を事務職として大勢採用していたため大変華やかな職場でした。ハイキング部も女性部員が多く、人気の尾瀬はバス1台分の人数が集まりました。長蔵小屋に泊まり、燧岳に登るグループと尾瀬ヶ原散策のグループにわかれて、ニッコウキスゲの群落を楽しみながら夏の1日を楽しみました。
 ただこのころは登山者も山小屋も環境についての意識が薄く、ごみが散乱し、木道をそれて尾瀬ヶ原に入る人も多く、尾瀬沼にはエンジン付きの渡し船がありました。その後環境保全が叫ばれてきれいになり、船もなくなりました。
 尾瀬には保険会社のハイキング部時代に2回、その後3回訪れ、燧岳と至仏山に2回ずつ登っています。
富士山
(画像のクリックで拡大表示)
50代で夜行バスで鳩待峠から尾瀬に入り至仏山に登ったときは、単独行で至仏山頂に1時間いても誰も登ってこず、晴天の尾瀬ヶ原の眺めを独り占めする幸運に恵まれたこともありました。クサモミジの尾瀬もミズバショウの尾瀬もヒツジグサの尾瀬も楽しみました。
 ハイキング部では、奥秩父の金峰山、瑞牆山にも上りました。瑞牆山ではシャクナゲが咲き誇っていました。そのほかに谷川岳、丹沢、巻機山、赤城山などに行きました。ただこのころの記録が残っていないので、赤城山はちょっとあやふやな点もあります。

4.その後の百名山登山
 その後外資系のコンピュータ会社に転職し、北アルプスの白馬岳、野口五郎岳、槍ヶ岳に登りました。
 野口五郎岳、槍ヶ岳は、北アルプスの表銀座コースを縦走した時です。会社の同僚2人と会社の英語教師のアメリカ人Dさんとの4人のパーティでした。Dさんは静かでやさしいアメリカ人でしたが山小屋の和式トイレが苦手で、槍沢小屋に泊まったときは夜中に外を歩き回ったと言っていました。
磐梯山
(画像のクリックで拡大表示)
 白馬岳に行ったときは、友人と2人で後立山連峰を縦走し、鹿島槍ヶ岳まで縦走するつもりでしたが、大雨にあったため、縦走を断念、我が国で最も高度の高い露天風呂のある鑓温泉の小屋で1泊し、下山して佐渡で遊んだ記憶があります。
 結婚してからはいったん山から遠ざかりました。家族で筑波山、美ヶ原に行ったり、会社で霧ヶ峰、丹沢山などに行った程度です。
 退職してから、海外旅行で知り合った仲間と男体山、奥白根、磐梯山、安達太良山に登りました。仲間の車で登山口まで行き、山頂を極めた後、また登山口まで戻るという効率的な登山でした。この方法だと縦走はできませんが手軽に登山を楽しめます。ただアルプスに登っていたころからは40年近くの月日が経っていました。体力の衰えを実感した登山でした。
 一番よく行ったのは筑波山です。我孫子の我が家から一番近い百名山です。単独行をしたり、息子や娘と行ったり、妻と2人で行ったり、友人と行ったりしました。ここなら80歳の私にも登れるかもしれません。
 丹沢にもよく行きました。いろいろなピークがあり、いろいろな登山口があり、想い出深い山です。

5.眺めたり、近くまで行った百名山
 登ったことはありませんが、登った山から見たり、観光旅行や出張で列車やバスや宿から眺めた百名山も数多くあります。
 利尻岳は利尻島に花を見に行ったときその雄姿を拝みました。羅臼岳、斜里岳、阿寒岳、大雪山、後方羊蹄山は数回の北海道観光で眺めました。トムラウシ、十勝岳、幌尻岳ははっきりそれと認識したことはありませんが見ていたかもしれません。
 東北の山で記憶に残っているのは、岩木山、岩手山、鳥海山、月山、朝日岳です。岩木山の美しい姿は何度も目に焼き付いています。また何曲もの津軽民謡にも唄われています。
 関東では、雲取山、甲武信岳は登った山から、天城山は近くに行ったとき目にしました。
 上信越では、草津白根山、浅間山、苗場山、高妻山は何度も見ています。
 北アルプスは何度も縦走したり、近くまで行っているので、五竜岳、鹿島槍ヶ岳、薬師岳、黒岳、常念岳、笠ヶ岳、焼岳すべて見たことがあります。
 中央アルプスも御嶽山、蓼科山、八ヶ岳、空木岳、恵那山すべて見ております。
 南アルプスは北岳や間ノ岳の頂上から、甲斐駒ケ岳、仙丈ヶ岳、塩見岳ははっきり見ていますが、他の南アルプス峰は見たかどうか覚えていません。
 北陸、近畿、中四国、九州は、白山、伊吹山、大山、九重山、霧島山、開聞岳をそれぞれ観光旅行に行ったとき眺めています。それ以外の山は見たかどうかわかりません。
 屋久島の宮之浦岳は屋久島まで行ったことがないので見たことはありません。

 日本百名山の本に挿入されている一覧表を眺めてみると、本当に素晴らしい山ばかりということがわかります。
 NHKの「グレートトラバース2〜日本二百名山一筆書踏破」で二百名山が登場しました。その中にも登ったり眺めたりした山が数多くありました。日本は山ばかりというか山に恵まれているすばらしい国です。

写真は掲載順に、槍ヶ岳、石鎚山、男体山、富士山、磐梯山です。

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