今月は弟のエッセイを2編お届けします。
 スペースが少し残ったので、今年傘寿を迎えた私の感想をまとめてみました。弟の「余命5年」の文章にも触発されています。

特別寄稿
鬼怒川温泉の山鳥
            新田自然


 4月から月1回、会津西街道を歩いていて、先日最後の今市宿に着いた。今年も、年間を通じて好天に恵まれ、いい旅ができた。旅の打ち上げは鬼怒川温泉だった。仲間と一緒の旅であったが、1人の部屋を頼んで取ってもらった。むかしはそうでもなかったが、この歳になると独りで勝手なことをしたいのである。他人に迷惑をかけたくもない。
 翌朝は4時に起きた。5時半くらいだったか、まだ真っ暗な朝風呂に入っていると、露天風呂の樹間から星が瞬いている。山の端がなんとなく白み始めているようにも見える。
 歩こうと決めていた。毎朝日課としているのだ。みんなが寝ている中をごそごそやりたくない、それも1人部屋を所望した理由だ。
 6時半ころになってホテルを出た。早朝の温泉街はなんとなく寂れて、人影もなく静かである。国道から離れているため車の往来もない。貰った地図を頼りに下流に向かって歩く。左手に鬼怒川温泉駅がある。東武特急電車はここまでで、ここから野岩鉄道の乗り入れ線につながる。以前から乗ってみたい路線ではあったが、毎月毎月乗っていると、いささかくたびれてもきた。自宅からだと、まずバスに乗り、東海道線、常磐線、東武鉄道、野岩鉄道、そして最後の会津鉄道と5路線、最長時4時間かけての長旅は、歩くよりも鉄道に乗っている時間の方がはるかに長く、生来の「乗り鉄」ではあるが、最近はビールもそれほど飲めない年齢ともなって、いささかのくたびれ感はやむを得ない。
 温泉街をさらに行くと鬼怒川ライン下りの乗船場の入口があって、ホテルの女性と思しき人に出会った。「大吊橋は近いですか?」と尋ねてみた。地図で見るともう近いことは分かっているが、なんとなく地元の人に話しかけてみたかったのだ。「2つ目の角を曲がればつり橋ですよ」と笑顔で教えてくれた。こんなことがわけもなく嬉しい。
 楯岩大吊橋という、新しくできたらしい橋は、鬼怒川の清流を遥か下に見てピンと張っている。右に楯岩という岩壁があってそこまでは行けるらしい。看板があって「熊が出没しますので、1人で歩く場合は音を立ててください」とある。階段を20段ほど登ると遊歩道がある。音を立てるため、手袋をした手で拍手をしながら、咳払いなどして、なるべく熊なんぞに出会わないようにして歩き始めた。
 歩きだしたとたん「バタバタ」と音がした。急な音に驚いて音のした方を探した。30センチほどの山鳥と思われる野鳥が、山肌の落石予防のため張り付けられた針金のネットの中でもがいている。よく見ると上部に隙間があってそこから入ってきたらしい。その鳥は横へ横へと脱出を試みるが、その先は塞がれて、とても出られない。木の枝を拾ってきて、鳥を上へ上へと誘導するが、バタバタするばかりで埒があかない。思わず声を出すのだが鳥に通じる筈もない。
 仲間たちとの出発の時間も気になる。「どうすればよいか?」収拾策を考えてみた。とりあえず駅へ行ってみよう。駅員か誰かに話をして、だれかに連絡し助けてもらえばいい。
 駅前に交番があった。「これは警察の領域ではないかもしれませんが」と、ことの経緯を話してみた。すると、「野鳥でしょう、この場合どうしようもありませんな。そこで死んだとしたらそれが自然淘汰ということです」という。「動物愛護法っていうのがあるでしょう。あれには該当しないのですか?」。話しているうちだんだん腹が立ってきた。
「もし、釧路湿原で丹頂鶴が人工工作物に引っかかっていたとしたら、もしそれを放置したら社会問題になるでしょう。猫が土管の中でもがいていたら助けるために大騒動になるでしょう、それとどう違いますか?」。
「‥‥‥・私も犬を3匹飼っているのでわかりますが…」駐在所のおまわりさんも困った顔をするばかりだった。「行って網を緩めるとかすることができるでしょう。どうもできません?そうですか、やむを得ません、これで帰りますが、鬼怒川温泉のイメージは傷つきますよ」と捨て台詞を残し、駐在所を後にした。
 そのあと、そそくさと食事を済まし、みんなで日光見物に出かけた。華厳の滝に行こうとバスに乗ったが、バスは満員で、立ったまま左右に曲がりくねったいろは坂をバスの揺れるに任せた。先月と異なり落葉してしまった奥日光の山々は寒々としている。乗客は外国人観光客も多く、アジア系の人が目立った。中禅寺温泉で下車し徒歩5分、雪が残っている。華厳の滝を見た。滝に至る導水路はそれほど大きくもなく、静かな流れが岩壁に来て突然大瀑布に変身し、滝しぶきをあげている。この変化には感動した。水源となる中禅寺湖もおだやかで、ここだけが怒り狂っている。「これはまるで今の世界だな」と感じたりした。
 下りのいろは坂では座席を確保できた。神橋というバス停で下車し、湯葉定食を食った。湯葉というこのなじみのない食べ物は、ここでしか食べないが、歯ごたえもよく美味であった。輪王寺は改修中、東照宮は「疲れたので止め」という仲間の声に負けた。二荒山神社まで散策してバスで戻った。歩きながら、頭の中を離れなかったのが、あの朝の野鳥であった。
 翌日になって、日光市役所に電話をしてみた。「藤原観光課」という部署が担当しているようだった。前日からの話をして、その場所へ行ってみてくれないか、と話をした。「鳥インフルが猛威を振るっておりますので不用意に人が触ってもいけません」とも付け加えた。「手に負えない場所だとどうしようもありませんが、まあとにかく行ってみましょう」と答えてくれた。ありがとうございます、それでこの話は終わります、確認の電話も入れません」、と話をして電話を切った。それで少し、すっきりしたつもりだった。
 しかし考えてみると、人間とはあまりにも自分勝手な生き物ではないかと思えてくる。動物愛護法なるものはあるが、これとて犬・猫など飼育する動物が対象であって、飼育管理する人たちを縛る法でしかない。自然動物は埒外なのである。野鳥などは自然に生き、死ぬとしても自然淘汰として扱われる。野鳥でも、ニュース性のある、鶴や、白鳥など、大きくて派手な鳥が遭難していたら、無理をしてでも救助するだろうし、それは美談にさえなる。山鳥くらいならどうなっても仕方ない、ということなのか。こう考えながら、一方で、たまさか地方に行って出遭った動物事故に、いちいちかまってやれ、という都会人の正義感(?)にうんざりしている地元の人の気持も理解すべきなのだろうか、と思ったりしている。
 しかし、あの、鬼怒川温泉の山鳥は、はたして助かったのだろうか、それとも…。

特別寄稿
わたしの自己宣告「余命5年」
            新田自然


 「余命半年です」と医師から告げられたとしたら、平気でいられるであろうか。そうなれば、まずショックで、当面何も考えられず、そして病状の説明と、治療方法を納得したとしても、不安は解消されず、残された1日1日が、ものすごくいとおしく、大切なものになるだろう。しかし、この歳ともなると、私はその人とそう変わらない状態にあるともいえるのだ。その期間が何日か、何か月かわからないだけである。いわば絶壁に立たされて、いつ落とされるかわからない状態にあるのだ。高倉健も、大橋巨泉も、永六輔も、蜷川幸雄も80代前半でこの世から、「おさらば」していった。私はいま78才で、5年たつと83才である。どういう理由をつけて来るかわからないが、大体お呼びが掛かるようなのだ。私の友人にも、昨年去っていった人が5人いるが、ひとりの例外を除いてみんな70代で、うち、ひとりは同期、2人は私より若かった。

「余命5年です」。私はそう自分に宣告することにした。

「余命半年です」医師がそう言う場合、たぶん半年くらいで死にますということで、それより長いか短いかは、わからないものです、とあの著名な近藤誠先生が述べている。そして、これは彼の理論だが、ガンの場合、ガンで死ぬより治療死のほうが多く、ほうっておいたらもっと生きられたはずのケースが多いともいう。たしかに私の友人の3人は、遺族の言からすると、治療死だったと思われる。治療死とは、抗がん剤が強すぎたり、手術しなければ自然死までもっと時間があったと思われるケースなどである。彼等は医師から告げられた「余命」さえも生きられなかったのだ。この場合の本人の無念さは計り知れない。そんなこともあって、私はもう不要な治療を受けないと決めた。

 私の兄弟は4人だったが、一番下の弟が早々と亡くなってしまい、1才上の兄と2才下の妹がまだ元気で生きている。
 誰の提案だったか、この歳になっていつお迎えが来るかもしれないので、申し合わせをしようということになった。
 「お互いの葬儀には参加しない。知らせだけを聞いて、亡くなったものに思いをはせ、手を合わせればいい、もちろん香典もしない」と文書を交わし合った。これは残された者への遺書のひとつだということになった。ただ、私の妻の葬儀の時は、兄は我孫子から、妹は四国から駆けつけてくれたのに、といったら妹が「お兄さん、あの頃は私達もまだ若く、なんでもできたけど、もう旅行は無理だし、死に顔を見てもどうすることもできないし、いちばん最後まで残ったものが死んだとき、その子たちがどうすればいいか、なんて悩まなくていいんよ」と言ってくれた。
 そう、生きているうちにいっぱいすることがあるんだと、兄とはメールで元気を確認し、先日は東京駅で待ち合わせ、酒を飲んできた。彼が発行しているメールマガジン「手賀沼通信」(彼はこれを毎月発行し、今月で222号になる)にはしょっちゅう投稿している。妹とは電話でよくしゃべりあっている。妹は私に家のことや父母のこと、町の思い出などを書いてくれと言ってくる。妹は電話で私の知り合いや同級生の話をいっぱい聞かせてくれる。

 あらためて死とは何だろう。その時が来ることは分かっていても、遠く、ずいぶん先のことだと思っていたが、最近はついそこにあるのだ、と感じるようになってきた。以前、「財布のなかの小銭」として、同じような小文を書いたが、その時よりも死はもっと近づいてきている。そして、それはそんなに怖いものではなく、限りなく「無」に帰ることだということが理解されるようになってきた。たしかに、幼い日、なんとなく気づいたら自分がいて、乳白色のベールをかき分けるように自己が形成されてきた。もう1回ベールの彼方へ去ってゆくものだと思うようになってきたのだ。
 だが、いまの私は、去っていった妻や父母、祖父母、若くして死んだ弟、叔父、お世話になった知り合いの人達などが懐かしくてしょうがない。それは、生きている者にとっての感情であって、そんなことは分かっているのだけれど、もうちょっと、あんなことをしてやればよかったのに、あの話を聞いておけばよかったのに、などと感じてしまうのだ。その思いをしっかりと書きとめる、その作業にこの上ない価値観を抱いている。

 いまの私は、わりと元気で、今年は毎朝1時間ばかりウォークに出ている。雨の日以外毎日続けているが、季節の移り変わりが肌で感じられ、田植えをした田圃が実りの秋を迎え、コスモスが開き始め、数珠の実が色づき始めている。富士山は見えたり見えなかったり、でも見えた日は嬉しくてじっと眺める。こんなふうに、1日のうちで、朝は最も素晴らしい時間帯で、歩いた後懸垂7回、ストレッチを約15分して体を朝起きモードに切り替えるのだ。
 その後が楽しいお喋りタイムだ。(これは余計な話だが、先日2年ぶりに後期高齢者検診に行ったら、「不思議ですねえ、体重も腹囲も変わらないのに、身長だけが1.3センチも伸びています」と言われた。大きく体を伸ばす運動と懸垂のお陰かもしれないと思った。)

 犬を連れた人、踊りの会に入っている人、カワセミを撮っている人、ユーフォニウムという楽器をやっている人、近くの老人ホームに住んでいる人、夫婦で歩いている人、岡山出身の話好きは女性、スポーツスタイルで決めたお兄ちゃん(といってもわたしよりずいぶん若い)等々、これらの人たちとあいさつを交わし、小山の上でおしゃべりをする。
 いま「文芸ふじさわ」という市の発行する冊子の編集委員をしていることもあって、毎朝会う人たちに、自分のことを書くよう勧めている。「とても、とても」と拒絶する人もいるが、話を聞いてくれる人も多く、図書館に行って冊子を手に取ってくれた人もいる。話を聴くと、自らの経験を、しゃべりたい人はいっぱいいる。聴いてあげて「いい話ですねえ、それを残しませんか」というのだ。何人かがその気になろうとしている。人はみずからを表現することにより、あるいは表現しようと努力する過程で、いろんなことを思い出す。
 兄が、「手賀沼通信」で戦争体験を募集したら、予想を上回る人たちから手記が寄せられ、半年間手賀沼通信は手記で埋まった。誰かの体験文を読んで、自分の戦争体験を書きたくなったのだろう、私はひとつひとつ読んでいって、その迫力ある体験談に心を打たれた。
 私は藤沢に住んでいる人たちにそれを勧めようとしている。自らのことを書き残す、それがその人にとってかけがえのない宝物となるのだと、勧めているのだ。
 私はそんな珠玉の日々を送っている。

 8月13日の日、妻の墓参りに行ったら、だれか花を挿してくれた人があった。あの人が好きだった花、アルストロメリアを供えてくれているのだ。そこに行けば彼女に会えるわけではないけれど、共に過ごした日々に思いをいたすことができる。
 思えば妻との日々は楽しかった。お互い憎たらしいことも言い合ったし、楽しい思い出だけではないが、自分の若かりし日々がそこにはある。
 ガンを発症して「余命2年」と言われ、妻はもうちょっと長く生きたいと言った。その時の医師の無神経な一言が悔しくて、その医師に殺意さえ抱いた。
 でもそのあと、彼女は泣きごとを言わず、必死に生き抜いた。2年で死んでいったが、それだったらあんな厳しい手術をさせねばよかったと後悔した。肝臓がんは眠るように死ねるガンだと、後から知った。しかしそれまでの日々は、ふたりにとって、10年にも匹敵する濃密な時間であった。彼女は亡くなる数日前、退院して自宅に戻りたいと言った。私はその気になって医師に相談したら、「もうそんな時間はありませんよ、いまでもよく生きておられるという状態です」と言われた。彼女の「余命」はあと何日か、と思った。

 もう9月1日、今年もあと3か月となってしまった。私のたんたんとした「余命」の時間が流れる。その時まで、生き生きとして、いろんな人と会い、ともに歩いたり、音楽を聞いたり、いい絵をみたり、文章を書いたり、この紅葉がきれいだね、と言い合ったり、そんな時間が送れることを念願しながら、この文章を書いている。

「余命5年」まだすることはいっぱいある。だから5年経ったら、また「俺は余命5年だ」などといっているかもしれない。それとも…。                            (2016・9・1)

傘寿を迎えて

 1月29日に満80歳になりました。まだなりたてのほやほやです。
 私は子供のころ肺門リンパ腺炎にかかり、小学校3年生の時は1学期と2学期を全休しました。
 ちょうど終戦の年だったので、学校に行っていても勉強などしている余裕はなかったと思いますが、体力のない弱い子供だと自信を無くしていました。
 そんな子供でも今の世の中は80歳まで生きられるのです。
 2016年7月に厚生労働省が2015年の簡易生命表を発表しました。それによると日本人の平均寿命は、男性80.79歳、女性87.05歳になりました。傘寿になっても、なったときはまだ平均寿命に達していないのです。
 その簡易生命表によると、80歳の男性の平均余命は8.89年、女性は11.71年です。80歳まで生きた男は、平均してあと8.89年も生きながらえるのです。
 弟の「余命5年」からすると、私は「余命4年」になるのかもしれませんが、そう勝手に死なせてもらえないようです。
 ただ平均余命8.89年といっても、その間必ずしも元気で、生きることを楽しめるわけではありません。寝たきりや認知症などの期間も入っています。
 平均余命を生きるより、死ぬまで元気で、飲むことや食べることを楽しみ、周りに迷惑をかけることなく、死ぬときは苦しまないであの世に行きたいと願っています。おそらく多くの人がそう願うのではないでしょうか。弟の「余命5年」は元気でいる間の余命でしょうが、それにしてもちょっと遠慮しているのかなと思います。

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