今月は弟のエッセイ3編です。

特別寄稿
薬の副作用の恐ろしさと医者探しの難しさ
          新田自然


 それに気付いたのは2か月ほど前からのことだった。午後から夕方にかけて猛烈に身体がだるくなり、起きておれないような脱力感に襲われるのだ。重力が3倍にもなったように感じられ、歩いていても立ち止まると次の一歩が出ない、苦しくなってへたり込んでしまいたくなる。意識ははっきりしているが、自分が自分でないような浮遊感に襲われるのである。手指のしびれ、唾液が口からあふれ、ものも読みづらい、それらの症状は、朝には起こらず、必ず午後に発症するのだ。
 発症してしばらくは一過性のものだと様子を見ていたが、あまりにもひどく続くものだから、通院している病院の内科の先生に診てもらった。一応の症状を訴えたところ、血液検査を指示され、貧血があるということが分かり、造血剤とビタミン剤を投与され、同時に貧血は内臓からの出血によることが多いと、胃・大腸の内視鏡、内臓のエコー検査を実施した。胃も大腸も、内臓さえも問題なく、医者は首をかしげるばかりだった。貧血が治ればだるい状態は改善するだろうと、薬を飲んで様子を見たが、症状はますますひどくなり、なにより、そのことによる心の落ち込み様が尋常でなかった。弱気になって各種行事はすべてキャンセルした。
 この状態だと足の悪い妻の介助もできなくなる、そうなっては、わが家は立ち行かなくなる。なんとか現状を脱却しようとネットで症状から来る病名を調べてみた。するとこの症状は貧血の外、低血糖、重症筋無力症、甲状腺の病気、うつ病、などが疑われると出た。その中から貧血は内科の先生に任せるとし、重症筋無力症に的を絞り、近くにある脳神経外科を訪ねたら、これは神経内科だと断られ、その専門医を探した。駅近くの総合病院に行ったが、予約制だと断られ一般内科に回され、結果として診断は同じだった。さらに調べると、先日かかった病院には内科にO先生という神経内科の専門医がいるというのが分かった。同じ病院で他の内科の先生を訪ねるのははばかられたが、とにかく相談してみることとした。
 行く前に自分の症状を思い出しながら紙に列挙し、同じ内科の他の先生にかかっていることもことわり、なぜO先生を指名したか、疑っている病名も書き込んで行った。O先生は若かった。先生は私が書き込んでいった症状をチェックし、「お薬手帳を見せてください」と言った。立たせて体を触り、目の動きや見え具合をチェックし、そして「わかりました、貴方の疑っている病気についての血液検査をやりましょう、そして、ちょっと協力していただきたいのですが、今飲んでいる薬のうち、これを止めていただけませんか、貴方が書かれた症状がこの薬の副作用と関係があるかも知れないからです」と言って、お薬手帳の薬の名前にぐりぐりと大きな丸印をつけた。
 その薬「スルピリド」は10月初めに、それまで通院していた近所の胃腸科で、「どうも夏以来胃の調子が良くない」と言って処方してもらった薬だった。元来薬に対しては慎重な方で、痛み止めや、風邪薬、ステロイドなどについてはネットで副作用などをチェックして慎重に使用しているが、胃腸薬についてはどうせ胃薬だと、疑いもせず飲用していた。
 O先生に指摘され、どんな薬だろうかと、ネットでチェックしてみると、この薬は向精神薬として利用されることが多く、消化器官用薬としても使用されているとあり、副作用の多い薬なので、医師の指導の下に慎重に使用する必要がある、とも書かれていた。副作用として、パーキンソン症候群、脱力感、焦燥感、不穏、しびれ、食欲不振、便秘など、かなりの症状が自分の状況に一致するではないか、「これだ」と感じた。その薬を処方されたのが10月2日で、日記によると、飲用後、数日して症状が発生していたことが分かった。
 薬を止めて症状が出てないことを確認し、指定された日に、検査結果を聴きに行った、もちろん若いOドクターを訪ねた。「やっぱり副作用でしたね、あなたが疑っていた重症筋無力症の抗体は出ていません、これって若い女性に多い病気ですよ」と笑いながらいった。
 あっけない結末であった。あんなに苦しんだ体は元どおりとなって、そうなると気分まで晴れる。症状が治まったので、まあとりあえず一件落着とした。
 今回の騒動には四人の医師が絡んでいる。医学博士の大先生とて原因追及には至らなかった。例えれば医者はいわば探偵であり、患者は依頼人である。探偵にも名探偵と迷探偵がいる。専門分野もあって、どの探偵に任せるか、これによって犯人が捕まるかどうか決まるのだ。探偵は確定証拠と状況証拠、その他情報をもとに犯人(病気)に迫り、事件を解決に導く。もちろん探偵によって事件へのアプローチの方法も違うだろう。問題の発端となった胃腸科の先生はこの辺りでは、名医といわれ、いつも満員だ。その先生が気軽に処方したことが事件を引き起こしたのだ。調剤薬局も、薬の副作用などについてなんの説明もなく、薬の説明書には「傷んだ胃壁を回復するお薬です」とだけの記述しかない。次の病院の内科の大先生と、駅近くの大病院の内科の先生は、症状を聴き、二人とも血液検査をやってそれで判断しようとした。
 最後にかかった若いドクターは、私が書いていった症状をチェックし、さらに「お薬手帳」を出せといい、細かくチェックした。「お薬手帳」による情報の点検、この差が犯人割り出しに大きな働きをしたのだと思った。
 もちろん専門分野の差はあるが、ごく一般的に考えても、治療手法として患者の情報集めに「症状の問診と触診」と「どのような薬を服用しているか」は必須事項だと思う。特に老人の患者だったら何か薬を飲んでいる、と考えるのは当たり前といえるだろう。そういえば、今回の場合、O先生以外の先生からは、その質問を受けた覚えがない。最初の胃腸科の先生に至っては、副作用のきつい薬剤を投与し、その後の経過をみようともしなかった。つまり治療方法は標準化されてなく、医師の経験的知識、情報収集力、推理力など、属人的手法に任されているように思えた。
 諦めないで最後まで追求したことが今回の勝因だと思った。ただ今回の騒動で、反省すべきことは、まず、安易に薬の処方を求めたことがあげられる。先生も薬も万能でなく、誤診もあれば副作用もある、ということを認識して対応するべきではなかったか、また医者にかかる場合症状を具体的にまとめ、ほか他にかかっている医院の有無や飲んでいる薬剤を記録するなどして、医者が正しく判断できるよう準備していく必要があった。私は複数の医院から数種類の薬を処方していただいており、半ば習慣的に飲んでいて、もし薬剤の名前を訊かれても答えられなかった。薬には善人としての側面(効能)と、とんでもないことをやらかす悪人としての側面(副作用)がある、そういったことを十分認識して情報を整理し、症状を客観的に伝える必要があった。私自身「お薬手帳」がこんな効力を持っているとは夢にも思わなかった。調べると「かかりつけ薬剤師」という制度があって、若干の費用がかかるが、患者が飲んでいる薬や健康食品などを総合的に管理しアドバイスしてくれる制度があるらしい。病気や不具合は医師・薬剤師と患者が協力して改善されるものだと改めて思った。
 すっかり元どおりになった状態で、あの大変だった時を思い出している。
(この話には後日談がある)
 近所の仲間たちへこの話をしていたら、一人の仲間から
「その薬の名前はひょっとしたらスルピリドではありませんか?」という話が出た。
「そうですよ、どうして知っているの?」と聞き返したら、
「私もやられましてね」というのだ。
 彼の話によると、まっすぐ歩けなくなって、病院に行ったところ、「お薬手帳」を出せと言われ、この薬の副作用を指摘されたらしい。
「あの薬は高齢者には危険だそうですよ、その話を処方してくれた医者に話したら、いい勉強になったと言われました、とんでもない話ですよね」
 身近にこんな副作用被害者がいたとは…、笑えない後日談である。

特別寄稿
昨年 富士山が見えた日
          新田自然


 今年の富士山の初日の出は、ことのほか美しく輝いているように見えた。
 毎朝夜明け前に家を出て、朝のウォーキングに出る。この日課は10数年続いているが、昨年元日、朝日に輝く富士山を眺めながら、富士山がどれくらい眺められるか、記録を取ってみようと思った。長年続いていることだから、冬はきれいに見えて、梅雨のころは見え難い、これくらいのことは分かっているのだが、記録を取ってやろうと思ったのは、そのことによって、毎朝秀麗な富士を眺めて感動し、そのことによってずる休みをなくし、日記のつけ洩れも防げるだろう、と思った。
 朝のウォーキングについては以前にも書いたが、日の出前に出るため、当然ながら、冬は遅くなり、夏は早くなる。我が家から車で出かけて5分のところに公園があり、駐車場に車を止め、仲間に朝の挨拶と若干のおしゃべりをして、川の両岸に設けられた遊歩道を、橋を渡りながら1周し、最後に小山の上で富士山を眺めながら体操をするのである。小山の上からは富士山が正面に聳え、360度の眺望が得られる。地図上から見ると富士山を東側から眺めることになり、富士山に向かって右側に丹沢大山、左側には低山が広がり、その向こうは相模湾である。後方、つまり東側(東京側)には河岸段丘があって、斜面は森林に覆われている。ここで約20分間体操し、最後に富士山と対話するのである。東京から移り住んだ頃は、その大きさに違和感を覚えていたが、今やすっかりなじんだその姿の美しさは、見えたか見えなかったかが、朝の話題になるくらい、一つの出来事になっている。
 以前は辻堂海岸に行って江ノ島に上る初日の出を眺めていたが、大渋滞するためここ数年は、いつものコースから眺めるようになった。後ろが山だから、日の出時間に水平線上に日の出を拝むことができない。だから今年の初日の出は、まず富士山が頬を赤らめたのをもって初日の出とみなした。白雪に輝く富士は美しかった。続いて日差しは丹沢山塊に当たり、高層マンションのガラスを輝かせ、近くの城址公園までやって来て、やっと小山に届いたのは、もう帰り道からであった。
 毎日の体操にかける時間は約20分、富士山はその間表情を変える。光り輝いたり、雲がかかったり、雪煙が飛ぶのが見えたりする。雲の動きは意外と早く、見えないと思っていた山容がくっきりとしてきたり、あるいは逆のことがあったりする。
 昨年の日記を読み返した。月別に歩いた日、見えた日、見えた率、特記事項、を集計してみたのだ。


 1年間の全日を歩いたわけではないのだからこの数字は正確ではない。ただ、1年のうち雨、旅行、体調不良などで歩かなかった日を除いて305日歩いたこと、富士山が見えた日は177日、富士山の見えた率は58%であったということで、ずる休みは一度もなかった。われながらよく歩いたものだ。書かねばならないという義務感も背中を押してくれた。
 たいしたデータは得られなかったが、そのことを書きとめることで、富士山の見え方や、初雪、融雪、光り輝くさまなどを記録にとどめることができた。ページには一言、富士山の表情が書かれている。やはり目立つのは冠雪の状況で、富士山は少しでも雪があったほうがいい。1年間で見ると、4月に入ると少し融け始め、6月には完全になくなって黒く輝くようになる。初冠雪は10月11日で、融けたり降ったりして白さを増している。昨年の特徴は完全な白富士となっていないことで、黒い部分が筋状に残り、降っても飛ばされるのか、あるいは降雪量が少ないのか、なんとなく気になる。そういえば公園に植えている河津桜が、昨年は元日に一輪だけ咲いていたのが、今年はもうずいぶん咲いている。
 体操は「身体中の筋肉を伸ばし柔軟にする」「消化器官にたまったガスを抜く」「肩と首を軟らかくしコリをなくす」「バランス力を保つため片足立ちをする」「股関節、膝関節の軟骨に刺激を与える」「朝の空気を大きく吸い込んで吐く」といった目的で行い、体操をした後、ゆっくりと富士山を眺めながら、「今日は何月、何日、何曜日、今日やらねばならないことは何か」などを反芻し、目を閉じて瞑想する。
 そして、もう一回富士山を瞼にとどめ、小山を下る。帰り道はゆったりとしたクーリングダウンの戻り道となる。昨年からはまた新しい仲間が加わり、駐車場までの道は話に花が咲く、私は、もっぱら聞くことに専念し、人それぞれに、持っている趣味や、歩んできた人生を伺い、好奇心が満たされる。
 また今年も日記帳をつけ始めた。富士山が見えたかどうかなんて、どうでもいいことであるが、元気な限り、休まずに歩き続け、完全記帳したい。そしてそれらは、季節の移り変わりを肌で感じ、人々との触れ合いに感動し、その日1日を懸命に生きる、そういったことのために、書き続ければそれでよい。その時が健康で、富士山がきれいに見えた、ということがいかに素晴らしいことか、そのことを素直に感じることができる1日1日があることを希求しながら書き続けるつもりだ。

特別寄稿
タコ焼きができるまでの時間って?
          新田自然


 かみさんにつき合って駅前のスーパーに買い物に行くようになった。彼女がレジに並んでいる間、私はヒマである。レジの向い側にはタコ焼き屋があって、私は所在無いのでタコ焼きの作業を眺める。
 たこ焼き屋のスタッフは3名、焼く係2名と、販売係1名で構成されている。私の興味はまずタコ焼きの作り方から始まった。この店のタコ焼き器は丸い穴が8個2列、それが店内に全部で20枚くらいあって、順繰りに焼いてゆく。
 まず、たっぷりの油を投入する。次に、薬缶状の容器から液体の生地が流し込まれる、液体は穴からあふれて焼き器全体に広がる。続いて本番のタコの登場、結構な大きさに刻まれたタコが生地を入れた穴に1個ずつ投入される。作業は無造作だが、見事に1個ずつ入っていく。タコが入れられると次は天カス、長ネギ、紅ショウガの順で、これらは無造作に、手際よくばらまかれ、その上からもう一度生地が流され全体が覆われる。それからしばらくは、全体に火が回るまで放置される。
 一方で売り子さんは経木の木舟型容器に詰められたタコ焼きを、お客さんの要望に従い、ソースをかけ、青のりを振りかけ、かつお節、マヨネーズなどをトッピングし、包装して手渡している。その材料によって8個で550円とか650円とかになっているようだ。
 タコ焼きの方は、そろそろ火が回り、生地が焼けてきている。焼き手は2本の金串を使って吹きこぼれた生地を削ぎ、タコ焼きに混ぜ込み、上下を回転させ、球形にまとめ上げてゆく。この段階ではまだ焼き色はついていない。タコ焼きはまたしばらく焼かれ続ける。
 お客は2,30人くらいの列になっている。多くが家族で買ってゆく。待っている間、いろいろお喋りを楽しんでいる。持ち帰って食べながら、話が弾むことだろう。
 先ほどのタコ焼に再び油が振りかけられる。そして再度上下を返し、焼き具合を確認する。金串の先でたこ焼きが焼き色を増してゆく。焼き上がったと判断されると、8個入りの容器に詰め込まれる。金串で2個ずつ、たこ焼きの玉が見事に詰め込まれてゆく。子供が見ていると、最後の2個は空中に高く舞って収納され、子供たちは喜んで喝采する。
 一連の作業工程を見ながら考えた。実に単純な作業だ、彼らはどうやってモチベーションを保つのだろうと。でも彼らは真剣に任務をこなしている。そこでこう考えた、餃子を焼く、すしを握る、みんな同じことの繰り返しだ。心を込めて作り上げたタコ焼きが、お客の心を満たし、幸せな気持ちにするならば、茶道でいう茶を点てることと同じで、一期一会、それは素晴らしい真剣勝負だ。
 紺絣のお姉さんは凛として忙しく立ち回っている。ふと目が合った、ニッと笑ってくれたので、最初の質問をしてしまった「おいしいタコ焼きをつくるには、急いでやっても20分かかります」彼女は笑顔で答えてくれた。彼女が心を込めて作ったタコ焼きを、本当に食べてみたいと思った。

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