まずお願いです。

投稿のお願い

 次のようなテーマで皆様方のご投稿をお待ちしています。
・テーマ 「思い出の」、「心に残る」、「忘れられない」などお好きな言葉に続く「出来事」、「事件」、「仕事」、「旅」、「風景」、「人」、「ことば」、「家族」、「音楽」などなんでもけっこうですから思い当たる言葉をつなげてまとめてください。
 「自分史」の一部分でも結構です。
・締切 特にありません。
・文章の長さ 特に決まりはありませんが1回の手賀沼通信に収まる長さといたします。
・投稿いただく文章の「タイトル」「お名前」「年齢(掲載する時期がありますのでできれば生年月日)」をお書きください。

 今月は私の人生の節目となった大きな出来事と、旅行中の思い出についてまとめてみたいと思います。皆様のご投稿の参考になればと期待しています。

二人の母の思い出

 私には二人の母が居ました。生みの母と育ての母です。
 生みの母は昭和19年(1944年)3月19日に30歳で亡くなりました。死因は肺結核でした。当時は肺結核の特効薬はなく、栄養のあるものを食べて静養することが唯一の方法でした。 当時は結核で亡くなる人は珍しいことではありませんでした。
 我が家は松山市から10キロほど西の愛媛県郡中町で、海岸沿いにある小さな町でした。当時は漁師も多く魚はわりと手に入りやすかったのではないかと思います。

 でも食糧事情は悪く、コメは少なく麦やサツマイモが多かったと思います。肉などはまずお目にかかれませんでした。
 それでも父は母のために食べ物をいろいろ工面していたようで、すっぽんを手に入れ、その生き血を母に飲ませたのを覚えています。
 ただ、病気に必要な静養はできなかったと思います。亡くなったときは長男の私が国民学校1年生の7歳、下に5歳、3歳、1歳の4人の子供がいました。戦争中でもあり、病気が進行していく中、子育ての苦労は大変だったと思います。
 母の病気が重くなったころ、私と3歳の妹は父方の祖母が面倒を見て、5歳の弟は母方の祖母の家に、1歳の弟は母乳の出る漁師の家に預けられました。
 死期を覚ったとき、母の無念さと心残りはいかばかりだったでしょうか。
 父は荒物屋を営みながら、銃後の町内の世話役をやっていました。我が家の店先で配給物を町内の方々に配っていたのを覚えています。防空壕を掘ったり、竹やりを作ったり、町内の人と防火訓練などもしていました。
 母の病気が肺結核という伝染病だったため、子供たちは母がなくなったときは側にはいませんでした。私は母が亡くなった日にその事実を知らされました。悲しかったですが、その時自分がどのような行動をとったかは不思議と覚えていません。

 それから約1年後新しい母がやってきました。翌年の2月でした。我が家で父と母のささやかな祝言を行ったのを覚えています。
 この母が素晴らしい母となりました。新しい母も再婚でした。母の父親は朝鮮で役人をしていましたが病気で亡くなり、日本に戻って母の母親と2人で松山市で親子で暮らしていました。母の弟は出征し南方で戦っていました。
 父と母は、今はいなくなりましたがお見合いの世話をする人の仲介でお見合いをしたそうです。そのとき父は子供のことは詳しく話さなかったようです。のちのち私の妻に、「結婚前にお父さんからは子供は2人しかいないと聞かされていた。来てみて4人もいるのでびっくりした」と語ったそうです。父は子供が4人もいると言ったら結婚してもらえないと思ったのではないでしょうか。
 母が詳しい事情を確かめないで再婚することに踏み切ったのは、おそらく男手がないまま、母親と二人で松山市で生活していくのに不安を感じたのではないかと思います。郡中町は空襲される恐れはありませんでしたが、松山市は愛媛県の県庁所在地だったため空襲の恐れがありました。そして母がやってきた年の7月26日に松山市は大空襲に遭いました。母親は母の結婚と同時に郡中町に引っ越ししていたため、松山の家は焼けましたが無事でした。
 その年の8月15日に終戦となりました。間もなく母の弟が南洋から復員し、東京で職を見つけ、母親を引き取りました。
 私は3年生となりましたが、4月から学校を休んでいました。生みの母親の結核がうつり、肺門リンパ腺炎を患っていたためです。この病気を治すため母は私のためだけに牛乳を配達してもらい、いろいろ栄養のあるものを食べさせてくれました。そしてその後、結核の治療薬として出されたストレプトマイシンを近くの医者で注射するよう手配してくれました。大変高価な薬で、そのうえ当時は自営業者は健康保険制度がなく、支払いに苦慮していたようです。当時子供だった私には聞かされていなかったことで後で知りました。私は3学期から学校に復帰できました。
 母には子供が生まれませんでした。おそらく自分の子供がほしかったと思います。その後漁師に預けられていた下の弟と、亡くなった母親の実家に預けられた弟を引き取り、先妻の子供4人を育てることとなりました。姑が気の強い人だったため、母が主婦としての立場を得られるようになるまでは、かなり時間がかかったように思います。
 母は我が家に新しい食文化をもたらしました。田舎の家に都会の風を吹き込むことになりました。母に手伝って水ギョーザの皮を作ったり、マヨネーズを作った楽しい思い出が残っています。

 母は4人の子供を育て上げ、1990年73歳で亡くなりました。男3人が東京に出たため、妹が両親の面倒をみて家業を継ぐことになりました。
 母は多病だったため、妹は大変だったと思います。妹には深く感謝しております。

人生の転機となった2度の転職

 ここでは人生の転機となった2度の転職についてまとめました。当時の記録は残っていないため、記憶に頼りながら書きました。もしかしたら間違っている個所もあるかもしれません。

1.三井生命から日本IBMへの転職
 私が大学を出たのは1960(昭和35)年です。日本が高度成長に向かって進み始めた年でした。黄金の60年代という言葉が残っています。
 その年に三井生命に入社しました。初任給は1万4千円、たしか銀行は1万5千円だったように思います。
 内勤で、入社時はIBMのパンチ・カード・システム(PCS)を使って統計を取るのが主な仕事でした。翌年当時の大型コンピュータのIBM650が導入されました。真空管式でコンピュータ本体の頭に大きな空冷装置が乗っていました。今のパソコンの何万分の1かの機能でした。私が主に使ったのはIBM1401型コンピュータでした。
 しかし三井生命で力を入れたのは、仕事よりも組合活動と山登りです。組合活動は執行部ではなく、執行部に要求を出す本社地区の委員でした。
 山登りはハイキング部に入り、月に1回は夜行列車で仲間たちと日本アルプスなど高い山を目指しました。

 三井生命で5年目を迎えたときに、日本IBMの幹部社員となっていた叔父からIBMに来ないかという誘いがかかりました。前の文章に出てきた南方帰りの母の弟です。
 当時はちょうどコンピュータ時代の幕開けと言っていい時代でした。IBMはその先駆けとなる企業で、それを担う人材を大幅に確保する必要があったのです。その年にのちに一時代を画すシステム/360を発表したため、新卒だけでは間に合わず、中途採用で大勢の人集めをしていました。
 三井生命はIBMのビッグユーザーでした。その社員の私がIBMに移るということは、形の上ではユーザーからの引き抜きということになりますが、大して会社の役に立っていたわけではないため、大目に見てもらえたのだと思います。
 三井生命を1964年9月15日に退職し、日本IBMに10月15日に入社しました。ちょうど1か月の休職中の10月1日には東海道新幹線が開通し、10月10日に東京オリンピックが始まりました。
 東京オリンピックの記録の収集や集計などには、日本IBMが全面的にかかわっていました。東京オリンピックで初めて日本でのオンラインシステムが稼働しました。
 IBMでは入社後半年以上研修がありました。一緒に入社した40名前後の人たちと研修を共にしました。全員中途入社で、銀行、メーカー、建設会社、サービス業、大学の先生、その他を退職した猛者ぞろいでした。ただ三井生命時代にPCSや1401型コンピュータを使っていたので、研修は他の人より楽に受けることが出来ました。
 私たち40名を加えて社員数は3000名を超えました。その後拡大を続け最大3万人くらいまでになりました。
 最初に配属されたのは、本社部門でしたが、半年後に製造会社を担当する営業所にシステムズエンジニア(SE)として転属しました。
 ところがまたその半年後に生命保険を顧客とする営業所に配転となりました。当時IBMは三井生命にシステム/360を売込み中で国産機種と激しい競争になっていました。形勢はIBMに不利でしたが、それをひっくり返す1つの手段として、元三井生命の社員を担当SEとしたようです。
 私の退職は円満退社だったため快く受け入れていただきました。営業所あげての努力が実を結びシステム/360が採用されました。私の2つ目の会社生活が始まったのです。
 その後、生命保険会社担当のSE課長になり、営業所を異動しながら、証券会社、地方銀行、信用金庫、その他を担当しました。営業所勤務の最後は仙台でした。仙台には家族を連れて転勤し3年近くを勤務しました。
 その後は研修部門、人材管理部門に異動、日本IBMでは28年9か月間勤務しました。
 最初の約20数年間は日本経済の高度成長期で日本IBMも成長を共にしてきました。コンピュータシステムもそれに合わせて発展してきました。そのような時期に先端IT企業で思う存分働くことが出来たのはいい人生だったと思っています。

2.日本IBMでのリストラ経験
 1993(平成5)年6月30日、日本IBMを56歳で退職しました。IBMの定年は60歳なので早期退職でした。
 前年11月、日本IBMはセカンド・キャリア・プログラム(SCP)を発表しました。早期退職者を募集するリストラです。当時全世界のIBMでも社員数を減らす計画が進んでいました。日本IBMもその流れに合わせたものでした。当時これほど大規模なリストラは日本では初めてだったのではないでしょうか。マスコミにも大きく取り上げられました。
 50歳以上の早期退職者に対して、退職時の年齢に応じて月額給与(本給、諸手当、本給の12分の8のボーナス分)の18〜3か月分の一時金を支給することになっていました。一時金は全額または一部を年金で受け取ることもできました。
 私は当時流通業やサービス業を顧客とする流通サービス統括本部の人材管理の責任者でした。55歳以上の社員の統括本部での早期退職者の目標の数字が割り当てられました。
 子会社への転籍、独立、再就職、IBMでの嘱託を選択でき、IBMからの支援がありました。60歳までIBMに残ることも可能でした。
 日本IBMでは人事権は所属長にありました。そのため人材管理が直接従業員と接触することはほとんどありませんでした。私の役目はSCPに関する情報の収集、情報の提供、調整などでした。それでもいろいろ心を痛めることがあったように記憶しています。
 SCPで何人退職したかは覚えていません。ネットで調べたら1993年6月末で1632人が退職という数字が見つかりましたが、もっと多かったような気も致します。
 私自身については人材管理という立場もあって、率先垂範でSCPで退職することに決めていました。統括本部長に相談したところ、アコムを紹介されました。
 アコムの社長と面談した結果、システム部でなく教育部の顧問で受け入れていただくことになりました。アコムは私のサラリーマン生活で3番目の会社となりました。教育部の顧問はIBMでの経験も生かせる、ストレスの少ない楽しい仕事でした。ちょうど株式を上場するタイミングで、消費者金融の各社が意気軒昂の時代でした。

 IBMは私の在籍していた時代は、エクセレントカンパニーと呼ばれ、新聞紙上をにぎわせていました。今では「IBM」という言葉を新聞で見る機会がめっきり少なくなりました。
 アコムはその後三菱東京UFJグループに吸収されました。
 三井生命も日本生命の傘下となりました。
 私は3つの会社とも、いい時代に勤務できた幸運をありがたく思っています。

思い出に残る2軒のホテル

1.アマルフィのルナコンヴェント
 2006(平成18)年5月から6月にかけて、阪急交通社の「ゆったり旅するイタリア13日間」というツアーに妻と参加しました。ミラノからシチリア島のパレルモまで、15の観光地を巡る旅でした。
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 8都市のホテルに10泊しました。ツアーのため超一流のホテルではありませんでしたが、それぞれ楽しかったと記憶しています。
 その中でも特に印象深かったのが、アマルフィのホテル ルナ コンベントです。このホテルは12世紀に建てられた修道院を改装した歴史あるホテルです。
 世界遺産に登録されているアマルフィ海岸の絶壁に建てられていて、ホテルの外は道を隔てて海になっていました。
 部屋はひとつとして同じではありません。すべての部屋から海が見えるわけではなく、テラスがついていれば運がいいと言えます。エレベータはなく、スーツケースはポーターが階段を手で運んでくれました。
 このホテルの魅力の1つは美しい中庭と回廊です。中庭には修道院時代の井戸が残っていました。ツアーコンダクターは井戸の縁に10個の部屋のカギを置き、それを私たちが1つずつ取る方法で部屋を決めました。
 私たちの部屋はテラスつきの窓側で最高の部屋でした。部屋のテラスから見たアマルフィ海岸です。

2.モンサンミシェルのレ テラス プラール
 2007(平成19)年4月、阪急交通社の「オランダ・ベルギー・モンサンミシェル・パリ9日間」というツアーに妻と参加しました。
(画像のクリックで拡大表示)
 この旅行で印象深かったのがモンサンミシェルの島の中にあるホテルのレ テラス プラールです。
 島の中なのでモンサンミシェルの修道院に調和した造りのホテルで、ホテルに入るにはスーツケースを持って石段を上る必要がありました。エレベーターもなく、部屋は狭く2人分のスーツケースを広げるには十分ではありませんでした。
 しかしそんな不便を補ってくれるものがありました。夜と早朝のモンサンミシェルを楽しむことが出来たのです。
 早朝にはモンサンミシェルの外周を一回りしました。日中の喧騒とは違った静かなモンサンミシェルです。
 レ テラス プラールは思い出深いホテルの1つです。

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