手賀沼通信第243号の「投稿のお願い」に応じてくださったお二人の貴重なご経験の思い出をお届けいたします。ありがとうございました。

利根川決壊の思い出    本多一基 86歳

 古い話になりますが、昭和22年9月16日に襲来した「台風9号」は、関東地方や東北地方に大きな被害をもたらしました。この台風が私の住んでいた近くを流れる利根川の堤防を決壊して、「洪水の怖さ」を知ったのです。当時、私は旧制中学4年生で、住んでいのは埼玉県北埼玉郡大越村というところでした。台風の愛称は「カスリーン台風」です。
 その日の午前零時ごろ、私は近所の大人達と一緒に利根川の堤防に行っていました。連日の大雨により利根川の水が増水したので「堤防が決壊するかも知れない」と聞いていたからです。利根川は私の家から200mくらいのところを流れていました。
 私は、暗い堤防の上に立ち利根川の流れを見て驚きました。濁流が4、5メートルのところまで来ていたのです。この辺の利根川は川幅が800mもあり、普段は堤防の下が草の生い茂る河川敷で、これが100mほどつづき、その先が河川で綺麗な水が流れていました。それが深夜なので遠くまでは見えませんでしたが見渡す限り濁流なのです。当時、利根川は上流から流れてくる土砂で川底が高くなり、この大河が決壊したら流域の村々は大変なことになるだろうと言われていました。その危険な状態が眼の前に迫っていたのです。
 それから1時間くらい過ぎたころ、暗い川下から「土手が切れたぞー、土手が切れたぞー」という声が聞こえてきました。さあ大変です。どの辺の堤防が決壊したのか分かりませんが、数人の大人達が「決壊の現場へ行って見よう」ということになり、暗い堤防の上を川下へ向って出かけました。
 私が利根川の堤防の決壊した所へ行ったのはそれから2日後でした。学校がありましたので直ぐには行くことが出来なかったのです。場所は北埼玉郡東村新川通り地先で、我が家から約5km、堤防が300mぐらいなくなっていました。そこから流れ出した濁流が川沿いにある農村地帯を水浸しにしていました。家屋が水浸しになり「わら屋根」の屋根だけしか見えない家々がたくさんありました。屋根の上に犬や猫が避難している家もありました。
 利根川の堤防が決壊した翌日から、濁流が上流にある私達の住む大越村へも来るのではないかと大騒ぎになりました。我が家でも倉に保管していた「米俵」が水浸しになると困るので、父と私で母屋の2階へ移動しました。その仕事は大変で「米俵」を2俵ほど移動して止めたのです。何故なら「米俵」は1俵が60sもあり、母屋の階段は狭く、父と私の2人で沢山の米俵を移動するのは不可能だったのです。
 心配した濁流は大越村には流れて来ませんでした。それは大越村とお隣の原道村との境界に「古利根川の堤防」が残っており、これが防いでくれたのです。原道村は殆んどの地域が冠水しました。大越村の私達は古利根川の堤防に感謝しました。また大越村では原道村の家屋を流失した人達に半年ぐらい小学校の校舎の一部を開放して救援したのです。この濁流が3日後には約60q離れた東京まで流れて行ったということを後で新聞を読み知りました。
 この後に大変な仕事が待っていました。それはお隣の原道村に古い親戚があり、家屋の1階が冠水しましたので、その救援でした。80歳を過ぎたお爺さんがいましたので、この老人は我が家で3ヵ月ぐらい引き取り、井戸水が飲めなくなったので「飲料水の補給」をしたのです。
 当時、この地域では飲料水は水道がなかったので「井戸水」を使い、トイレは水洗式がなかったので「汲み取り式」でした。そのため洪水により井戸にトイレの汚水が流れ込み、井戸水は飲めなくなったのです。そこで我が家では原道村の親戚へ「飲料水」の補給をしたのです。井戸水を一升瓶に入れ、それを5本ほど自転車の荷台にくくり付け隣村まで運びました。
 これが私の仕事で往復10qの道程を何往復したか覚えておりません。当時、洪水で一番困ったのは「飲料水の問題」ではなかったかと思っています。
 この災害をご心配なさった昭和天皇が大越村小学校に行幸なさったことを覚えています。

あの力道山との想い出   田中通義 91歳

 新橋内幸町の富国生命ビル405号室のスゥイング・ドアーをドーンと突き入って来たのが白いTシャツに漆黒のタイツが良く似合い、首筋から肩にかけて鍛え上げた筋肉が隆起した、あの当時(昭和25年〜38年)の若きスーパースター力道山であった。事務所に入るなり「おおここがボーリング設備の輸入販売会社かい」と傍若無人に振舞ったのが彼の挨拶であった。33歳になったばかりの私は、支社長と共に応対しながら事務所内を一巡すると、繁忙の一時を割愛したと見え、力道山の「さあ行こう」の誘いで私と力道山の二人は急ぎ足に北側のエレベーターで無言のうちに降り、日比谷公園側玄関口に駐車してあった彼の愛車、黒塗りで真っ赤なシートの二人乗りムスタングに乗り込む。

力道山と千駄ヶ谷の通産局へ
 力(周囲の人達は愛称でリキと呼んでいた)が運転席に乗り込み、暫くするとエキゾーストの破裂音が唸りだすような排気音に変わり、ほんの数分のうちに千駄ヶ谷の通産局に着いたと錯覚するほどの疾走であった。昭和35年頃、まれに見るコンバーティブルの外車とあって沿道の人々は驚異の目で疾走する車を追い、当時のスーパースターが運転していると分かると万人の視線が追跡する。同乗の私は路上の観衆が横っ飛びに消えて行く様を眺めながら、かなり興奮していたに違いない。
 通産局に着くと、リキは廊下を軋ませながら大股につかつかと奥深く入り込み、黒タイツのでっかい尻を課長の机に下ろす。嫌味のある役人の一人として以前から面識のある輸入外貨・割当申請受付担当官(当時日本は外貨不足のため、公報を通して一定期間、輸入に必要な外貨を通産省が輸入者の申請に基づき割り当てた制度で、輸入品目についても規制した)と対面した私が、おもむろに鞄から百万ドルの外貨割当申請書を取り出した時、先程からリキの存在を意識していた彼は、いささか緊張した面持ちで「現在割当保有額が百万ドルを割り込んでいるので、来週通産省から追加割り当てを受けるので出直すように」との事であった。威圧するかのように見ていたリキに、私がその旨を伝えると案外率直に了解し、そのまま玄関口で別れる。
 私には、あの甲高い排気音が一オクターブ落ち、それが遠ざかるにしたがって、興奮と繁忙に満ちたリキとの一日がやっと終了した思いであった。

百万ドルの輸入外貨割り当てを得て
 翌週、私は単身で局に赴き百万ドルの承認印のある輸入外貨割当書を事務所に持ち帰る。当時の為替レートは、対ドル三百六十円で三億六千万円相当の許可証は、当時、主要産業育成のために必死であった大蔵、通産省が遊興設備輸入の目的に貴重な外貨を割り当てた事実を私は異常とも思えた。
 当時、既に日本ボーリング協会が設立されており、会長に新橋第一ホテルの土屋社長(故人)が就任し、かつ、氏は日本で唯一の青山ボーリング場(明治神宮外苑野球場隣)を独占経営していた。昭和25年ごろ、駐留米軍の払下げ設備を20レーンに仕立てた遊技場は、当時としては在日外国人の数少ない社交場の一つとして立派な役割を果した。
 白黒テレビが街頭へ進出し、リキの空手チョップの大写しが大男の悪玉役外人レスラーを次々となぎ倒し、敗戦の屈辱と鬱憤を晴らした演技の妙が視聴者を引き付けた。この成果を背景に、リキは当時の外貨不足に悩む日本経済を尻目に、戦勝国アメリカでの興行に於いても稼ぎ回ったものと推測される。外国為替管理法(当時は国による外貨の集中管理を行なった)の規制で外貨を自由に日本国内に持ち込めない時代のため、必然的に興行収益が在外資産として蓄積されたのは疑う余地がない。そこには、レスラー・リキと複雑に絡まる政界のリキは、あたかもドクター・ジキルとミスター・ハイドの様な二重人格的役割を演じつつ、自由党・党人脈ボスとの関係が深まり、政界との接点が垣間見る思いがした。
 在外ドルを基盤に、リキは爆発的流行を予測してか、日本における独占的ボーリング場経営戦略に着手する。その頃、私は貿易立国を目指す当時の国情に沿って商社マンに憧れ、エールフランスを辞め、ある米国系商社に採用されるが、その商社が当時のブランズウイックの総代理店でボーリング設備の輸入販売を行っていた。数年後にはボーリング設備販売で、ブランズウイックは三井物産とAMFは三菱商事と各々合弁会社を設立し、日本市場における熾烈なボーリング施設の販売合戦を展開し、あの昭和35年〜45年代の第一期ボーリング・ブームを形成することになる。
 当時の三億六千万円(百万ドル)は経済成長とインフレ・ファクターを勘案すると現在では二十億円程度になる。許可を受けた外貨割当証の期限は三ヶ月で、この間に輸入許可書に変更し、更に5パーセント(当時の千八百万円)の輸入担保金を期限内に為替銀行に寄託しなければ、既得権利が消失することになる。この期限を明日にひかえ、多忙なリキを赤坂のリキ事務所に訪ねる。

日本独占経営目指して
 1960年(昭和35年)のローマ・オリンピック観戦のため、出国を明日にひかえ、特製革張りのアームチェアにどっかと腰をすえたリキと、分厚い眼鏡をかけた長身細身のアメリカ人、ヘルムート・ウインター支社長と私、もう一人、リキが取引きする三菱銀行新橋支店の若きエリート、綾小路氏の4人が、畳2畳程の黒檀の大きなリキの執務机を囲んで商談のため対峙する。主要案件は明日期限切れする外貨割当証(担保金千八百万円を銀行に寄託、輸入未実現の場合は国が担保金を全額没収する)を輸入許可証に切り替え、なお、輸入代金支払い条件として5年に亘る延払の許可を得ることにあった。
 私は専ら通訳兼貿易実務者として商談に加わるが、リキがアメリカ興行から学んだ片言英語が奇妙に支社長に通ずる。一見、商談は順調に進むかに思えたが、輸入管理令下の専門的諸問題については私と銀行マンに頼ることになる。リキは看護婦らしい者から両腕にビタミン注射をさせ、次に弟子たちにマッサージをさせ、当時の若きジャイアント馬場はリキを先生と敬愛し、代わる代わるマッサージを受け持っていた。
 突如、黒光りする精悍な顔を、額の大きな横皺が見えるほどに突き出したリキが興奮して、支社長を罵り殴りかかるかの深刻な場面もあり、誤解を解くには私の通訳を必要とした。原因は単純で、支社長が度々口にする「You should read these catalogs and do this and that 」「これ等のカタログを読んで、あれこれしなさい」等の英語の命令的用法が癪に障った様子であった。殴られれば大怪我間違いない状況下で、緊張状態が4〜5時間も継続し、問題が出つくした夜中の12時を過ぎた頃、リスクを伴うが担保積みをして輸入許可証にすることの結論に到達した。銀行マンと私は急遽、深夜の赤坂から三菱銀行新橋支店まで輸入関係書類を取りに行く。真っ暗で広い無人の銀行内のスポットライトの下で必要事項をタイプし、待たせておいたタクシーを駆って引き返し、リキがそれに署名捺印をして長時間にわたった商談は無事、翌朝午前2時頃終了した。

通産・大蔵省との折衝
 次には最重要課題で、かつ至難な百万ドルの輸入代金延べ払い決済条件の事前承認を得ることである。当時の輸入代金の決済方法は、銀行ユーザンスを伴わない場合は原則として、輸入通関後現金決済と定められていた。通関後一年以内の延べ払いは外国為替銀行の承認事項であるが、5年となれば通産省(現・経産省)並びに大蔵省(現・財務省)の標準外決済の承認を必要とした。当然ながら私がこの任に当たることになる。一ヶ月程かけて設備の輸入、施設の運営、投資の回収、償却、資金調達並びに資金繰り計画書等を自身で作文、作成、これ等の計画書を先ずは通産省に提出し、五年間に亘る延べ払いの必要性を強調し納得させなければならない。主要産業育成政策の遂行と外貨不足に悩む通産省では娯楽施設の輸入とあっては容易に貴重な外貨を割当てたり、支払いに就いての特典を与えたりするわけにはゆかない。当時の通産省は私が勤めるビルの近くで便利ではあったが、期限を目前に若い私には何とも耐え難い交渉ごとであった。毎回の交渉の経緯はアメリカ人の支社長に報告しているものの、一向に許可への進捗が見られないことに不安が付きまとう。四回目の折衝で裸電球のフイラメントが燃え尽きたかの一瞬、暗黒に一閃、重苦しい雰囲気が急変した。担当官が「次は大蔵省外国為替管理局へ説明に赴くように」との、要請であった。

 しかし、又しても今日を以て期限切れする重要書類を手中に重責を担った重い足取りを大蔵省へと進めることになる。外国為替管理局の担当官は同姓の田中某で、彼に通産省担当官と同様の説明を始めるが、生来お世辞を言えない私が、説明の冒頭に「ね、田中さん」と懇願する私が何とも惨めで仕方ない。一向に承認への反応が無いのがもどかしく、刻々過ぎて行く腕時計を心配げに見ながら、はて終業の午後5時までに承認が得られるのか、との思案の頂点で、ようやく担当官の初動があった。散々にじらした挙句、やおら担当官は不承不承の態で机上の承認印を数部ある申請書に押し始めたが、押し終わったのは五時に五分前であった。担当官に「これを通産省担当官まで持参するように」と言われるままに、承認印を得た私は欣喜雀躍、道路一つ隔てた通産省へとまっしぐらに駆け込む。

 前回面識のある担当官に会い最終決済を求めるが、周囲は早やくも終業、帰宅の様子が伺える。状況を察した担当官は数人の上司へ書類を持ち回って認印を得ている。最後の印は五時三十分を過ぎていたが、何とか予定通り期限内に許可の取り付けに成功し、若かった私は富士山を一気に駆け下りた思いであった。

 数年後、三井物産が設立する合弁会社、日本ブランズウイックと、AMF(米国:ボーリング・ピンセッターから弾道ミサイル等の電子化学兵器製造会社)も三菱商事と提携してボーリング設備の輸入販売に参入することになり、図らずも日本を代表する二大商社が独占経営に乗り出す。リキの財力と知名度を以てしても、この市場介入には到底勝ち目がないと判断したか、リキは辛うじて渋谷道玄坂外れにリキパレスを建築し、20レーンのボーリング場を経営するにとどまる。夢見た日本市場における独占的支配は、はかなくも断念しなければならなかった。

 振り返ると当時の夕刊(昭和38年12月15日)に「力道山、赤坂ラテン・クオーターで喧嘩の挙句、トイレのドアに隠れていたヤクザに腹を刺され出血多量で死す」とあった。それ以前にも赤坂辺りの高級バーにおいて暴力沙汰の三面記事で再三にぎやかしたことのあるリキに、起り得る惨事が現実となったこととは思うが、一世を風靡した大正12年韓国生まれの日本名、百田光浩(39歳)の最後は惨めで儚いものであった。

 政界に深くかかわったと思われるリキは、彼が先生と敬愛する政界の大物に寵愛される。思うに通産省、大蔵省をへて、五年間延払条件を伴う百万ドルの輸入承認証は、政界大物の差し回しが無ければ到底承認されなかったものと私は今、力道山とオーバーラップしながら当時を回顧する。

(文中の、通産省・局は、現・経産省・局、大蔵省は、現・財務省)


力道山

大蔵省、現・財務省
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