今月も貴重な体験談を2編いただきました。大野耕一さんは現役時代の会社の先輩、大倉明治さんは同じ会社の同僚です。ありがとうございました。

銀座の想い出      大野耕一 83歳

 『リーダイ』、この雑誌を覚えているだろうか。正式には『リーダーズダイジェスト』といい、終戦翌年の昭和21年(1946年)6月に創刊され、“世界を知る雑誌”として国際間コミュニケーションの役割を果たしていたアメリカ誌の日本版である。創刊された当時は、日本にまだ週刊誌・月刊誌などが普及していなかった時代なので、このアメリカ生まれの月刊誌は、知識層の間で幅広く購読されていた。
 当時、早稲田大学の学生だった叔父がこの雑誌を読みたくて、発売日になると必ず私を買いに行かせた。本屋が少なかったのか、毎月自転車に乗って、家から10分ほどの銀座松屋の書籍売り場まで行ったことを覚えている。
 本の中身は大半が翻訳物で、中学生の私にはあまり興味はなかったが、本そのものが少なかった時代なので、叔父は1ヵ月かけて、隅から隅まで丹念に読んでいた。その叔父はすでに亡くなり、『リーダイ』も昭和61年(1986年)2月、創刊40周年を目前にして、突然無期休刊になってしまった。その当時、45万人の読者がいたにも拘わらず、通信販売会社へと転身してしまった経営戦略の失敗が原因だったようである。
 『リーダイ』は消えてしまったが、このことがキッカケとなって、私と銀座とのおつき合いが始まった。あれからかれこれ60年、現在は湘南に住んでいるので、東海道線で1時間かけて月1回程度の頻度で、銀座に遊びに行っている。向かう先は、山野楽器、ヤマハ、鳩居堂、伊東屋等など。山野楽器やヤマハでは、クラシック音楽の好きな演奏家の昔はレコード、今はCDを探すのが楽しみだし、伊東屋では、新顔の文房具を発見するのが目的だった。
 以前はレターサイズの3穴のバインダーがあって、とても便利だった。3穴だとしっかり収納できるので、穴を開ける3穴のパンチや厚い書類を開けられる1穴のドリルパンチなども購入した。書棚には、こうして3穴のバインダーに収まった書類が、書籍のヨコに5メートル位の幅で並んでいる。私が書類整理をできているのは、このバインダーのお蔭である。地域活動団体の「じゃお湘南ニュース」、「四木会月報」(俳句誌)などは創刊号から、もちろんこの「手賀沼通信」も、一緒にその書類の仲間に入っている。
 さて、夜の銀座には、昼間とはまた違った顔がある。夕方になると、昼間歩いた中央通りではなく、一本中に入った金春通りや並木通りのビルの壁に掲げられた看板が、輝いて見えてくる。その数3,000とも言われる、お客様接待中心の高級バーやクラブだ。人事部門勤務が主だった私には縁のない話で、ほとんど行ったことがない。ただ、これも山種証券時代の若い頃だったが、トリスバー、ニッカバー全盛の時代で、こういう安い所には、同僚たちと随分通っていた。サントリーの月刊PR誌『洋酒天国』を置いていたトリスバー「ドリー」、ジュークボックスのあった「バッカス」、ホステスが4,5名いた「ラタン」など、どこも懐かしい店だが、もちろん、今はない。友人と一緒に行っていたバー「ビルゴ」が、わずかに看板だけを残しているくらいか。遠い昔のこととなってしまった。
 私の勤務していた社団法人ビューティフルエージング協会(BAA)の会合のあと、三井化学出身の守川さんが、久し振りに銀座に出ようと言って、コリドー街の一角にある「ギルビーA」に連れていってくださった。平成14年(2002年)12月のことである。
 その日の銀座は寒かった。道行く人たちも、コートの襟を立てている。店に着くと、そこは何と、以前、私がよく通っていたバー「クール」の一軒おいた隣りだった。いつも夜に行くせいか、気がつかなかったのである。
 ご一緒したのは、守川さんと私のほか、BAA事務局の女性2人の計4人。私たちは入口付近に席を取ると、守川さんはお馴染みらしく、すかさずママの有馬秀子さんが席に着いてくれた。100歳というが、こうして毎日店で働いているせいか、80代くらいにしか見えない。私は、ウイスキーの水割りをいただく。おつまみに出てきたのは、ウルメイワシ、品川巻、柿の種、ピーナッツなど、ごく簡単なもの。ウルメイワシは、ママの食事のメニューの中の一つで、身体に良いので、店でもこうして出しているとのこと。

一番左がママで、一番右が私
(画像のクリックで拡大表示)
 100歳のママが銀座で元気に働いているとマスコミに報道されて以来、ここ2,3年、店の客層が変わってきたそうだ。長寿にあやかりたいという若い女性や家族連れのお客様が非常に多くなってきた。話は、いきおい健康法になってくる。
 食事は、基本的に1日2食。朝必ずいただくものは、牛乳、卵、チーズ、らっきょう、納豆、漬物、それに先ほどのウルメイワシである。ご飯は食べない。昼過ぎに2度目の食事をするが、それもおにぎり1個かサンドイッチ程度。食事はそれだけだそうだ。
 寝るのは、店から帰って片づけものをして、午前2時頃。それでも6時にはもう起きているという。午後に2,30分の昼寝を必ずするが、その両方を足しても就寝時間は少ない方だろう。それで丈夫なのは、夢をほとんど見ず、しっかり寝ているからだという。
 女学校時代から身体は強かったそうで、100歳を超えても一人暮しで身の回りのことをすべて自分でやり、かつ毎日深夜12時過ぎまで働いているのだから、驚異的である。
 店の女の子は、開店当初、文学座の研究生を3,4人預かっていたので、その子たちを躾けながら、使っていた。躾けるといっても、礼儀作法は口で言って教えられるものではなく、店全体が行儀良くしていれば、その空気で自然に身につくものだという。もちろんマニュアルのようなものはなく、あったところで、心がこもっていなければお客様に即座に見抜かれてしまうので、一生懸命お客様に仕えるという気持ちを心底から持つことが大切だという。
 こういう雰囲気が店の中に漂っているので、お客様の中には、うちの娘を手伝わせてくれないかという申し出があるそうだ。店の中が何とはなしにきっちりしているのは、こういう考え方ですべてを取り仕切っているからだろう。お客様も、いきおい行儀の良い方が多いという。
 ママの人生哲学めいた話を聞いて私たちも元気をもらい、一時間ほどで店を辞した。

     極月や銀座のママは百寿なる   耕 一

 その銀座のママも、平成15年9月にこの世を去った。享年101歳。1週間前まで、元気で店に出勤していたという。ママのいないギルビーAは考えられず、やがて店を閉じることになる。
 「降る雪や明治は遠くなりにけり」と詠んだのは、俳人・中村草田男である。この句には、過ぎ去った時代への郷愁がよく表わされている。明治、大正、昭和、平成と生き抜いてきた1人の女性の終焉が、私たちにとって想い出深い「昭和」という時代も遠くなったことを教えてくれた。

腎臓ガン闘病記    大倉明治  79歳

 今年4月17日(火)の人間ドックで「腎臓の腫瘍性病変の疑いあり」と言われた。日頃から発ガン物質を含む食材を使わないよう気を使って来たので、「そんなはずはない」と思った。しかし、その後CTスキャンなどの精密検査を受け、出た診断結果は左腎臓ガンだった。大変なショックだった。気を取り直して医者から話を聞いた。腎臓ガン治療では、抗がん剤や放射線はあまり効果が期待できないとされており、全摘手術が最も有効的な治療法で、完全にガン細胞を摘出できれば完治率も高い。ただし、腎臓ガンは他ガン種と比べてゆっくりと進行するので、10〜20年という長い期間にわたって再発する可能性があり、術後は特に注意ということだった。
 これまでPSA検査で定期的に通っている湘南鎌倉総合病院では、毎年30例以上の腎臓腹腔鏡手術をしてきており、いずれも成功しているということであり、この病院で腎臓ガンの手術を受けることに決めた。入院にあたって、以下のような懸念があった。
@ 手術で全摘しても、抗がん剤は飲むのだろうか。その副作用はどうなのか?
A 手術後に転移の可能性はあるのか
B 人工透析はすることになるのだろう
C 腎臓は2つあるというが、1つ取ったら、どんな制約が出てくるのか。特に、お酒は飲めなくなるのでは、という不安。
 そして医者から聞いた答えは、順調に行けばすべて心配なし、ということだった。
 入院前にいろいろな検査を受けた。大きな検査はCTスキャンによる腎動脈、腎静脈の撮影だった。造影剤を注射されながらの撮影。造影剤が注入されると一瞬カッと体中が熱くなる。初めての経験である。この日は、諸検査のための採血をして、尿検査、血圧測定や心電図分析診断、と続いた。検査とはいえ結構疲れるものだった。
 7月12日(木)は入院1日目。腸内を空にするため午後4時半に洗浄液を2リットル飲まされた。2時間で飲み切るようにと言われ、早速に飲み出したが、残り1リットルとなってからが大変! 飲み終わってしばらくするとほぼ30分毎にトイレへ。深夜0時ごろにやっと就寝。
 翌日は、午前11時半に手術着に着替え、下肢の静脈還流を改善する弾性ストッキング(血流が上に向かうほど圧力が弱くなる段階的圧迫圧の構造になっているストキング)を履く。これによって足先から心臓への血液の戻りが容易になるとのこと。そんな状態で手術室へ。そして横に寝かされ酸素マスクを装着され、背中から麻酔の注射を打たれる。すごく怖かったが、すぐに麻酔が効いて意識がなくなり目が覚めると病室のベッドに寝かされていた。時計をみたら午後の6時半だった。酸素マスクはそのまま付いていて、他に何種もの薬剤バッグがぶら下がった点滴スタンドから出たパイプの先は腕に食い込んでいる注射針につながっていた。また、下半身には排尿管が入っていた。
 身動きもできない状態で眠ったが、午前2時に目を覚ます。朝方までうつらうつらしていると看護師が6時頃にやってきて酸素マスクを外してくれた。1時間後の血中の酸素濃度が80%に低下したため、鼻から酸素を入れるパイプが入れられた。朝9時に担当医がやって来て傷口を点検し、「水を飲んでいい」と許可が出たので、水を飲む。
 12日(木)夜9時からは水は一滴も飲んでいないので、実に36時間ぶりである。この時鼻からの酸素パイプも外された。点滴は薬剤の種類は減っていったが、術後4日間続いた。午後5時には痛み止めの点滴がなくなる。このあとは痛み止めがないので、くしゃみや咳をすると身体の内部がとても痛い。トイレに行く時ベッドから腹筋を使って起き上がるが、その時もとても痛かった。(利尿促進の点滴はその後も続き、16日(月)の午前2時にやっと外された。この間トイレの回数は、術後1時間おきだったのが、日を追うごとに回数が減り、そのうち手術前の頻度(午前中が2〜3回、午後が4〜6回)に戻った。もともと2つあった腎臓が1つになったときのためのリハビリだったようだ。)
 15日(日)朝に久しぶりの食事。12日の朝食以来なので丸3日ぶりである。量は少なくあっという間に終わる。昼食が待ち遠しい。この日から連日見舞客がやってきた。ベッドに寝ていてヒイヒイ言っていると想像していたようだが、意外に元気だったそうで、みんな驚いていた。
 18日(水)朝回診に来た医師によって、傷口を閉じていたホッチキスを外してくれた。傷口は4箇所ある。手術は始めに4箇所小さな穴を空けてそこから小型カメラや手術器具を入れて処置を施す。そして、最後に4つのうちの1つの穴を広げて(長さにすると10cmくらい)腎臓を取り出す。その後ガーゼでカバーされていたが、この日ガーゼが外され初めて傷口を見た。そしてこの日に、医師の判断で21日(土)の退院が決定した。
 19日(木)以降は、退院後の生活のリハビリのようなもので、トイレの回数のチェック、血圧測定、体温測定、抗生物質の錠剤の服用といったもの。退院後の生活指導として減塩の食事の説明を1時間近く受けた。起き上がる度の腹部の痛みは変わらないが予定通り21日に退院。8月15日(水)に術後の初検診を受けた。順調に回復している、との診断には安心した。プールに行くことのOKも出た。そして手術で摘出した腎臓の病理検査の結果は、以下のとおりだった。
 すでにガンが大きくなっており、全長5cmになっていた。
 ステージはT1bだった。(初期。大きさが4cmを超えていて7cm以内。他の臓器に転移していない)
 腎臓ガンが最も転移しやすいのは肺だが、まだ転移はしていない。
 残った右の腎臓は正常で人工透析の必要は全く無い。食べ物、飲み物に関しての制約はない。

 その後は手術前と同様の生活を続けている。あとで解ったことだが、腎臓は1日に原尿を180g作っていてそのうち1%が尿となって体外に排出る。残り99%は血液の中へ戻される。尿を作る以外に重要な役目がある。すなわち、人体の司令塔の役目を果たしているのである。脳、心臓と同じくらい重要な仕事をしている。 例えば、血中の酸素濃度のモニタリング。いろんなスポーツで高地トレーニングがよく行われているが、これは腎臓の機能を考えてのトレーニング方法である。高地でトレーニングを始めると最初は酸素濃度が80% 台に落ちる。しかし続けていると2週間後には腎臓の働きにより96〜98%に戻るそうだ。酸素濃度が下がると腎臓がある物質(酸素が欲しいとというメッセージ物質)でその旨骨に伝え、そこで赤血球が増産されるというわけである。 腎臓が機能しなくなると、多臓器不全を引き起こすことになる。
 1つ取ってもあとひとつ残っている、と言われても安心はできない。今深酒は避け、疲れが溜まらないよう、そして腎臓には過度の負担をかけないよう、節度を保っての生活を心がけようと肝に命じている。

手賀沼通信ブログ抜粋

嘉納治五郎についての講演会に行く(NO.1129) (平成30年5月20日)

 平成30年5月19日市民プラザホールで行われた「嘉納治五郎とオリンピックムーブメントー多様性を重視した国際人」という講演会に出席しました。
 我孫子市教育委員会・我孫子市の文化を守る会共催で、講師は筑波大学体育系教授(つくば国際スポーツアカデミー長、東京2020大会組織委員会参与)の真田久氏でした。
 加納治五郎は我孫子に別荘を建てました。その縁で白樺派の人たちが我孫子に住んだのです。いま別荘跡に加納治五郎の銅像を建てる運動が進んでいます。
 この講演会もそれに関連して開かれました。

嘉納治五郎の生涯
・1860年 神戸に生誕
・1882年 講道館柔道創設
・1882年〜1920年 高等師範学校長(高等師範はその後東京教育大学から筑波大学となる)
・1909年 日本人初のIOC委員(〜1938年)
・1911年 大日本体育協会設立
・1912年 ストックホルムオリンピック大会に日本初参加(団長)
・1936年 1940年の東京オリンピック大会招致成功(その後戦争の激化により返上)
・1938年 1940年の札幌冬季オリンピック大会招致成功(その後返上)、帰路洋上で永眠

 嘉納治五郎の功績は
・柔道の創設
・国民の体育として、年齢、性別、経済、上手下手にかかわらず誰でもできる運動(徒歩、水泳)を奨励
・人種的偏見撤廃
・オリンピックは欧米にとどまるのではなく真に世界の文化にするならアジアで行うべきと説いたことなど
 嘉納治五郎というと柔道しか思い浮かばなかったのですが、いろいろ新しいことを教えられた講演会でした。

inserted by FC2 system